なんや色んなとこに書き散らしてわけがわからなくなってきましたが
白山(鶴)、四国(亀)のツルキラインの説明でも
鶴は吊るすという動詞の語源になっただろうと仮定します。
そして
亀は噛むという動詞の語源になっただろうと仮定します。
吊るすという語を使うとき
私たちは吊るす側に認識を置きます。
そして
噛むという語を使うとき
私たちは噛む側に認識を置きます。
能動態というものでしょうか。
両者を受動態にすれば
吊られる、噛まれるということになります。
しかし、吊るす噛むは
一方が上へ引っ張る(持ち上げる)エネルギー
一方が下へ引っ張る(引き込む)エネルギーで
両者が能動態のままで拮抗する事があります。
(釣りをしている人たちはわかると思いますし
日本の綱引きも
この鶴亀の認識と深いつながりがあります。)
この時、第三の目が出ます。
神の目です。
吊るす噛むという主観
吊らされる噛まれるという客観
を超える視座が鶴亀の拮抗で発生します。
目が出るので鶴亀はメデタイと言われます。
この鶴亀(ツルキ)は後に剣(ツルギ)に変化しました。
2つエネルギーが拮抗する剣
刃の部分が鶴でグリップ部分が亀です。
剣が3種の神器のひとつとされたのは
このためです。
目が出る鶴亀のエネルギーを拮抗させる人間こそ
スメラミコトにふさわしいとされました。
もちろん当時、天皇は万世一系などではありませんでしたので
哲学性の高い人が大王へと担がれました。
そういう哲学性を積む事が古代では誉れとされていましたので
目を出す認識を持つ人が現れれば熱狂したわけです。
それだけ哲学性を持つわけですから
剣を持つ者はもちろんクニをうまく治められるわけです。
草薙の剣はこういう時代の認識を携えた最後の剣でしょう。
とにかく、祝!鶴亀ラインということでしょう。
メデタイのです。
鶴の恩返しと浦島太郎なのです。
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