真の意味でジャッジメント(裁き)を失くす方法は
ジャッジメントを拒否するのではなく
ジャッジされても動じない心を養うことである。
ジャッジを拒否するという裏側には
ジャッジを怖れているという事実が存在する。
ジャッジを怖れているからこそ
ジャッジを失くそうとするのです。
ここまで書くとわかると思いますが
ジャッジをなくそうと画策する人たちはジャッジを怖れているのです。
しかし、スピリチュアルとは怖れを手放す旅でもあります。
ジャッジされることを怖れ
ジャッジすることによって傷つくのを怖れ
ジャッジし嫌われることを怖れているならば
それはスピリチュアルではないと自分は思います。
その怖れを取り除く事こそがスピリチュアルなのだと
自分は考えています。
まず自分の内奥に深く入りジャッジされた過去を見つけるのです。
そして傷ついた時に何が起こっていたのか?
自分のまわりに受け入れてくれる人間がいなかったのではないですか?
怖れを強さに変えて生きている大人たちに触れ合う機会が
少なかったのではないですか?
ジャッジしたこと、されたこと、
すること、されることが問題ではないのです。
生きていく強さを養うことができなかった
過去の自分・環境にこそ問題があるのです。
これは個人の問題だけではなく
社会の問題もあるのです。
だから社会的なヒーリングが必要です。
だからといって環境のせいだけにしていても
問題は解決されません。
過去の環境を受け入れ
裁かれても動じない心を養っていくことこそが必要なのです。
裁きをなくそう、なくそうと頑張ってみても無駄でしょう。
この世から悪がなくならないように
裁きもなくならないからです。
裁きから逃げるのではなく
積極的に受け入れ
それを光によってコントロールする
それが真のライトワークというものです。
闇は拒否すれば拒否するほど近づいてきます。
この本質的な原理はご存知でしょうか?
ブロックをなくせばなくすほど
光は集まり、音が伝導します。
それがクリスタルです。
クリスタルは闇を拒否しているから
光を放っているのではなく
闇をも受容しているから闇が近づけないのです。
以前にも書きましたが
闇を拒否し光だけを宣言するものたちには
闇が迫ってくるのです。
これはアメリカの戦争を例えに出せばわかりやすい。
光だけを宣言するキリストの原理主義は闇を引き寄せるのです。
(無意味な正義を宣言することによって
衝突を誘発しているのは誰が見ても明らかです。
本当の自由とは自由を宣言することではなく
自由を与え続けることです。
愛とジャッジメントで自立した大人になることこそが
最高の自由であり愛であるのです。
何かに依存し自分以外のものに囚われる日々ほど
不自由な時間はありません)
闇と裁きを個々人が受け入れることによって
本物のライトが社会に充満するのです。
闇と裁きに動じない強い心を皆が持つことこそが
社会を純化させるのです。
それが本物のジャパニーズクリスタルエンライトメントなのです。
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