最近はノン・ジャッジメントなるものが勢いを増してますが
昔は my way なるものが流行したものです。
自分の道を究めるから人の気持ちがわかるのであって
ノン・ジャッジメントで自分と同じ道を生きさせることによって
人の気持ちをわかろうとする人の気持ちがわかりません。
人間は人それぞれ違う歴史、違う環境を持っています。
であるから自然と方向性や考え方は異なってくるはずです。
異なるから面白いし異なるから新しいエネルギーが生まれるのではないでしょうか。
自分と他人を完全に分けてジャッジして考える。
その先に融合とか受容とかがあるのではないでしょうか。
自分以外の人間が自分と違わないならば
別に受容しなくてもいいわけですから。
ですからノン・ジャッジメントを支持する人たちは
逆に違いを受け入れたくない人たちではないかと思います。
それこそ完全なジャッジメントであると思いますが、、、
真の意味でジャッジメントしないとは
ジャッジすることなんです。
ジャッジして違いを明確にして
違うからこそ受容する。
全てを受容する必要なんかはない。
ゴールは同じでも道が違うだけ。
別に無理に同じルートを通って山を登る必要なんかないと思います。
それこそ自由意志の剥奪です。
結局、『自由』とか『受容』とかの問題になると
”道”の考え方が最も自由度が高く本質的だと思います。
道は違えど同じ人間。
道には、正道・邪道・外道があります。
社会に害毒をもたらすのは外道です。
だから、道から外れていると書きます。
別に正道を進む必要もないでしょう。
しかし、道から外れてしまわないように
自分をしっかりとジャッジメントすること
そして、外道が増殖してきたら
外道をジャッジメントすることも必要でしょう。
私たちは社会を構築する主体となるべき大人なんですから。
何が善であるかを断定するのではなく
善なるものとは何なのかを皆で考えていく雰囲気こそ必要でしょう。
そのジャッジの雰囲気がなければ社会は確実に後退します。
良いことは良い、悪いことは悪い。
それを決めるのは誰かではなく
私たち全員なのです。
問題はジャッジメントではなく
社会に対して主体性を持っているかどうかの問題なのです。
ジャッジメントする側に視点を置いているのか
ジャッジメントされる側に視点を置いているのか。
能動的であるのか、受動的であるのか。
その違いによってジャッジメントに対するスタンスも違ってくるのです。
個人の殻に閉じこもらず、主体的にジャッジをしよう!
良い悪いは皆で決めればいい。
なぜならそれがルールなんですから。
ルールも法もない場所、それを無法地帯と呼びます。
スピリチュアルがこういうものになってきてませんか?
何が欠けているのか?
皆が深く認識する必要があるでしょう。
今のスピリチュアルがらみで、よく言われる「憑依される人間が悪い」という言葉ですが・・・・
「あちら側」の無法地帯っぷりを承認して野放しにする概念を誘導されて降ろしているとしか思えませんですものね。
結局「無法地帯」誘導にはまっているのではないか?という疑念も抱いてしまいます。
書き込みありがとうございます。
スピリチュアル業界には自己愛者が多いです。
①他人を律するけれども自分を律しない。
②ノンジャッジメントと言いながらジャッジする人を受け入れない。
③愛や光と言いながら、社会的弱者を救おうとしない。
④生かして頂いてありがとうございます、と言いながら未来の私たちのために戦った昭和の先祖の戦争の歴史には一回も言及しない。
そして
>「憑依される人間が悪い」
なんてなことも言われてるんですね。
これは裏返すと、憑依されない私は特別な人間だ
という意識が見えてきます。
実はこういう意識にこそ悪霊は憑依します。
悪霊にとりつかれた自己愛者がスピリチュアルを
隠れ蓑にして勢力を拡大しています。
しっかりとジャッジメントして
騙されないようにしないといけませんね。
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