JSR運動も未だに展開中ですが(笑)
昨年書いた記事の蒸し返しもしてみたいと思います。
信頼と自我防衛
何回も書いておりますが
誠の愛とは何を言っても傷つかない関係を
築くことだと思います。
誰かが何かを言ったことに対していちいち反応するのは
その言った人のことを知らないからそう思うわけであり
その人を深く知り理解すれば、あ~また言ってる
と笑って済ませられるのです。
(笑えないときももちろんあります)
誰かの言説で分断された!否定された!と感じるのは
人間を深く知ったことがないからです。
それは自分自身も含めて
人間とは複雑なものです。
完全に矛盾してますし変人的な部分は誰にでもあります。
それを曝け出すのか隠すのかの違いがあるだけです。
自分を隠すことを自我防衛と呼びますが
真の理解は自我防衛があっては成し遂げられません。
自分のスタンスを完全に宣言する。
そして融合する。
これしかないと自分は思います。
これはククリ姫の記事でも書きました。
相手のこともろくに知らないのに
完全に受容するのはスピリチュアルエゴではないかと思います。
なぜならば
誰しも受容する自分を特別な存在と思いたい願望があるからです。
その特別な自分に陶酔することによって存在証明を出しているのです。
私たちは一介の人間に過ぎません。
カンナガラの道に入ったとしてもその特質は変わりません。
人間は神になれるわけではありません。
この本質を知っているものならば
他者を完全に無条件に受け入れるということが
偽善であることに気付きます。
寛容さは人間の特質ではなく
神の特質なのです。
その神の特質を備えようとすることはエゴでありますし
または、その神の特質を自分が備えていると
妄想するのもスピリチュアル・エゴなのです。
カンナガラの道というのは
神の特質を備える道ではなく
人間は神にはなれないということを知る道なのです。
柳は緑、花は紅なのです。
人間としてどうしようもない部分。
だらしなくて中途半端な自分。
そういう自分を持っているからこそ人間は神に祈るのです。
だから人間は無理に他者を受容しようとは思わずに
出来る限り自分を表現し
こういう人間なんだなとわかってもらうようにすれば良いのです。
受容する、認知するというのは
お互いに気を使って自我防衛のネットを張ることではないと思います。
結局、その自我防衛のネットは最終的には崩壊します。
胸襟を開いて、腹を割る。
その先にしか平安や安寧は見えてこないでしょう。
腹を割って対立だけを経験した方もいらっしゃるでしょう。
でもその向こう側にある融合こそ真の平和なのです。
遠慮してお互いに踏み込まなかった人よりも
意見をぶつけ合って殴り合いのケンカをした人ほど
友情と絆は深まるものです。
それが真の理解なのです。
お互いの違いを認め合う理解なのです。
ただそのケンカにもルールがあります。
1対1でやるとか、姑息な手を使わないように名前を名乗りあうとか
スタンスは違えど同じ価値を共有してるだとか。
要するに誠の愛とは真の理解であり
真の理解とは平和的に争う手段を構築することであり
人間として如何なる人に対しても
同じ目線で接するということなんだと思います。
無条件の愛と宣言し寛容さを前面に押し出すのは
自己陶酔型のスピリチュアル・エゴだと思います。
本物の無条件の愛とは自分を落とすことの出来る
お笑い芸人のような人間を無条件の愛の実践者と呼ぶのです。
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