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古代神や古代聖地をご紹介し、神仏基に対する信仰を再生して頂くお手伝いをしています。
  2017/08/23 [20:59] (Wed)
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  2008/09/10 [22:12] (Wed)

日本のスピリチュアルはもともと
”それぞれのスタンスで”という認識の下
出発したものでありますが

勘違いをした人たちが
”自分だけのスタンスで”という認識で
業界を席巻してきました。

これは弥生時代に
天皇制がリベラルから絶対王政的なものに
組み替えられていった歴史と一致します。

日本には絶対王政がとても好きな
支配したい人、支配されたい人が
大勢います。

もともと資本主義社会に絶対王政的な雰囲気が強かったので
スピリチュアルをリベラルにしたつもりですが
ここ、2,3年ものすごく絶対王政的色彩が強くなりました。

自己顕示欲の強い人たち
(真に癒されてない人たち)が
ひとつのスタンダードを宣伝するようになりました。

本来であればスピリチュアルというものは
自分の価値を高めるのではなく
受け手側、すなわちヒーリングされる側に
自由を与えていくものでなければならない。

自分たちがスピリチュアル業界に参入し
自由に表現できているのは
スピリチュアル業界に自由に表現ができる雰囲気があったからであり

それに感謝するならば、次の時代を担う人たちに積極的に
そのエネルギーを渡していかなければならない。

でも実際はどうでしょうか?

スピリチュアル業界の中に自分の価値を投げ捨て
若い人たちのために自由を与えている人たちが
どれだけいるでしょうか?

皆、自分の価値にしがみつき
自分の帝国を築くことに必死です。

特に業界で有名な人ほど
絶対王政的で認められたい願望のある人たちです。

身のまわりに感謝しようと言っている人ほど
自分が表現できている環境に感謝せず
自分の考えを広めることに必死です。

手段がプロパガンダでどうであれ
人の上に立ったのであれば
全体がどれだけ自由意志とアバンダンスに満ちているか
検証し責任を全うする必要があるでしょう。
 

今のような状況では
有名どころに行かないほうが無難です。
私が見る感じからもほとんどが宗教の構造を持っています。

宗教とは思考停止を促すものです。

本来スピリチュアルは
センタリング、つまり自分の中心に還るという
自由思想を持たせた為、ここまで広がりを見せましたが
最近出てきた自己顕示欲の強い人たちは
一言もセンタリングや自由意志について言及しません。

また、新たにどこかの国からもたらされている
ノン・ジャッジメントという宗教回路。
これも完全な思考停止を促すもので
支配者側が都合よく民衆を支配するために生み出されたものです。

ジャッジしない否定しない
聞こえはいいですが
この現状肯定の思考は社会を恐ろしく危険なレベルへと
導いていきます。

中国の社会主義もこのような現状肯定の思想で
民衆を完全支配しました。
その結果、立ち直れないくらい社会が衰退し
今でも社会の核となるものを導き出せないほどです。

日本でも江戸時代に儒教を使って
”お上”に逆らえないようにする民衆コントロールが行われました。

今でもこの名残を強く残している地方があります。
その日本の地方が、外国から来る
ノン・ジャッジメントの思想と結合していると考えられます。

これはほんとに恐ろしいことですね。

日本人はアジアの中でいち早く
近代化を成し遂げたはずですが
スピリチュアル業界の中においては
近代化以前のメンタリティを持ったグループが
水を得た魚のように跳ね回っています。

私たちの周りには
こういう業界の流れに不満を持つインテリジェンス溢れる
知性的な方々がたくさん集まってきてくれています。

光は光、影は影になるでしょう。

宗教的な構造を持っているものは淘汰されるでしょう。
日本人はそれほど馬鹿ではありません。


スピリチュアルという名の支配は終わり
自己の神性につながりネットワークが広がる
真のスピリチュアルフリーダムが到来するのです。


自由は奪うものではなく与えるもの。

帝国主義的なエネルギーは跡形もなく消え去るのです。

 

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  2008/09/04 [00:56] (Thu)

JSR運動も未だに展開中ですが(笑)
昨年書いた記事の蒸し返しもしてみたいと思います。

信頼と自我防衛

何回も書いておりますが
誠の愛とは何を言っても傷つかない関係を
築くことだと思います。

誰かが何かを言ったことに対していちいち反応するのは
その言った人のことを知らないからそう思うわけであり
その人を深く知り理解すれば、あ~また言ってる
と笑って済ませられるのです。
(笑えないときももちろんあります)

誰かの言説で分断された!否定された!と感じるのは
人間を深く知ったことがないからです。
それは自分自身も含めて

人間とは複雑なものです。
完全に矛盾してますし変人的な部分は誰にでもあります。

それを曝け出すのか隠すのかの違いがあるだけです。

自分を隠すことを自我防衛と呼びますが
真の理解は自我防衛があっては成し遂げられません。

自分のスタンスを完全に宣言する。
そして融合する。
これしかないと自分は思います。
これはククリ姫の記事でも書きました。

相手のこともろくに知らないのに
完全に受容するのはスピリチュアルエゴではないかと思います。

なぜならば
誰しも受容する自分を特別な存在と思いたい願望があるからです。
その特別な自分に陶酔することによって存在証明を出しているのです。

私たちは一介の人間に過ぎません。
カンナガラの道に入ったとしてもその特質は変わりません。

人間は神になれるわけではありません。

この本質を知っているものならば
他者を完全に無条件に受け入れるということが
偽善であることに気付きます。

寛容さは人間の特質ではなく
神の特質なのです。

その神の特質を備えようとすることはエゴでありますし
または、その神の特質を自分が備えていると
妄想するのもスピリチュアル・エゴなのです。

カンナガラの道というのは
神の特質を備える道ではなく
人間は神にはなれないということを知る道なのです。

柳は緑、花は紅なのです。


人間としてどうしようもない部分。
だらしなくて中途半端な自分。
そういう自分を持っているからこそ人間は神に祈るのです。


だから人間は無理に他者を受容しようとは思わずに
出来る限り自分を表現し
こういう人間なんだなとわかってもらうようにすれば良いのです。

受容する、認知するというのは
お互いに気を使って自我防衛のネットを張ることではないと思います。

結局、その自我防衛のネットは最終的には崩壊します。

胸襟を開いて、腹を割る。
その先にしか平安や安寧は見えてこないでしょう。

腹を割って対立だけを経験した方もいらっしゃるでしょう。
でもその向こう側にある融合こそ真の平和なのです。

遠慮してお互いに踏み込まなかった人よりも
意見をぶつけ合って殴り合いのケンカをした人ほど
友情と絆は深まるものです。

それが真の理解なのです。
お互いの違いを認め合う理解なのです。

ただそのケンカにもルールがあります。
1対1でやるとか、姑息な手を使わないように名前を名乗りあうとか
スタンスは違えど同じ価値を共有してるだとか。


要するに誠の愛とは真の理解であり
真の理解とは平和的に争う手段を構築することであり
人間として如何なる人に対しても
同じ目線で接するということなんだと思います。

無条件の愛と宣言し寛容さを前面に押し出すのは
自己陶酔型のスピリチュアル・エゴだと思います。

本物の無条件の愛とは自分を落とすことの出来る
お笑い芸人のような人間を無条件の愛の実践者と呼ぶのです。

 




  2008/08/24 [15:03] (Sun)

”類は友を呼ぶ”という諺がありますが
スピリチュアルの世界でもよく引き合いに出されます。

良いエネルギーには良いエネルギーが引き寄せられ
悪いエネルギーには悪いエネルギーが引き寄せられる。

エネルギーの世界を知ればこれが全くの間違いだということがわかります。

光には必ず陰ができます。
陰には必ず光が差し込みます。

良いとされるものには悪いとされるものが引き寄せられ
悪いとされるものには良いものが引き寄せられるのです。

しかも、良いエネルギーには良いエネルギーが引き寄せられると
考えられているスピリチュアリストたちは
ジャッジメントをしないだとかワンネスが大切だと説きます。

しかし、”良いエネルギーには良いエネルギーが引き寄せられる”と
言っている時点でそれはジャッジメントであり
社会を善と悪の2元論で切り裂いていることを宣言していることを意味しています。

しかもワンネスは全ての統合であり
善と悪との統合も視野に入らなければならないのに
良いエネルギーには良いエネルギーが引き寄せられる
と言いながらジャッジメントはNOと言います。

日本にはこのような得体の知れない新興宗教的な
スピリチュアルがアメリカから輸入されていることに
私たちは留意しなければなりません。

この矛盾というのはアメリカが自由を叫びながら
戦争を仕掛けていることと同じレベルのものです。

そういう嘘と偽善の思考法が大量に日本に流れてきているのです。


神社に行けばわかりますが
自分の肉体を純化すればするほど
悪いバイブレーションに憑依されやすくなります。
そのケガレを落とすのがミソギなのです。

アメリカの思考法とは違うしっかりとしたエネルギー認識が
日本の古代にはあります。

この闇のエネルギーアタックを乗り越えれば乗り越えるほど
自分のエネルギーが純化していきます。

なぜなら闇のアタックが常態化すれば
それほどのことでは動じなくなるからです。
それが闇を受容するという認識につながっていくのです。

ワンネスとはジャッジメントしないことを意味するのではなく
しっかりとジャッジメントをしてそれぞれの存在の多様性を認めた上で
融合するという認識です。

違いを消すのではなく、違いを超えるのです。

ここの部分は現代日本人が最も苦手とするところでしょう。
しかし、戦前まで私たちは普通にこれを実践していたのです。

他人とは違う自分のスタンスを表明することが平和につながるとは
ほとんどの方が認識されておりません。

それがとめどないスピリチュアルの衝突を引き起こしていることに
気づく必要があります。

キリストの原理主義では違いを超えることはできません。
なぜなら彼らの文明は異端者狩りを行うことによって今があるからです。
だからキリストの原理主義が悪いわけではありません。
私たちとは違うのです。

役割をしっかりと認識して世界を融合に向かわせなければなりません。

日本の中でもこのキリスト原理(感謝・愛だけを宣伝するもの)に
洗脳されているにも関わらず神道を称する方々がいらっしゃいます。

気をつけないといけないでしょう。
光だけを宣言するのは穢れです。

なぜなら光であれば自らを光と呼ぶ必要はない。
中身がまるで逆だから”光”と見せたいのです。


TVや本、雑誌に洗脳されていては
いかなるエネルギー認識も身に付かないでしょう。

メディア先行の知の伝達に疑いを持つ事が
知性活性化の入り口でしょう。

それはエネルギーを知っていく上でも重要なことです。

しっかりと自分の中心につながるサポートを
ネルスピ・カウンセリングは行います。


 




  2008/08/23 [19:09] (Sat)

真の意味でジャッジメント(裁き)を失くす方法は
ジャッジメントを拒否するのではなく
ジャッジされても動じない心を養うことである。

ジャッジを拒否するという裏側には
ジャッジを怖れているという事実が存在する。

ジャッジを怖れているからこそ
ジャッジを失くそうとするのです。

ここまで書くとわかると思いますが
ジャッジをなくそうと画策する人たちはジャッジを怖れているのです。
しかし、スピリチュアルとは怖れを手放す旅でもあります。

ジャッジされることを怖れ
ジャッジすることによって傷つくのを怖れ
ジャッジし嫌われることを怖れているならば
それはスピリチュアルではないと自分は思います。

その怖れを取り除く事こそがスピリチュアルなのだと
自分は考えています。

まず自分の内奥に深く入りジャッジされた過去を見つけるのです。
そして傷ついた時に何が起こっていたのか?

自分のまわりに受け入れてくれる人間がいなかったのではないですか?
怖れを強さに変えて生きている大人たちに触れ合う機会が
少なかったのではないですか?

ジャッジしたこと、されたこと、
すること、されることが問題ではないのです。

生きていく強さを養うことができなかった
過去の自分・環境にこそ問題があるのです。

これは個人の問題だけではなく
社会の問題もあるのです。
だから社会的なヒーリングが必要です。

だからといって環境のせいだけにしていても
問題は解決されません。

過去の環境を受け入れ
裁かれても動じない心を養っていくことこそが必要なのです。

裁きをなくそう、なくそうと頑張ってみても無駄でしょう。
この世から悪がなくならないように
裁きもなくならないからです。

裁きから逃げるのではなく
積極的に受け入れ
それを光によってコントロールする
それが真のライトワークというものです。

闇は拒否すれば拒否するほど近づいてきます。

この本質的な原理はご存知でしょうか?

ブロックをなくせばなくすほど
光は集まり、音が伝導します。
それがクリスタルです。

クリスタルは闇を拒否しているから
光を放っているのではなく
闇をも受容しているから闇が近づけないのです。

以前にも書きましたが
闇を拒否し光だけを宣言するものたちには
闇が迫ってくるのです。

これはアメリカの戦争を例えに出せばわかりやすい。
光だけを宣言するキリストの原理主義は闇を引き寄せるのです。

(無意味な正義を宣言することによって
衝突を誘発しているのは誰が見ても明らかです。
本当の自由とは自由を宣言することではなく
自由を与え続けることです。
愛とジャッジメントで自立した大人になることこそが
最高の自由であり愛であるのです。
何かに依存し自分以外のものに囚われる日々ほど
不自由な時間はありません)


闇と裁きを個々人が受け入れることによって
本物のライトが社会に充満するのです。

闇と裁きに動じない強い心を皆が持つことこそが
社会を純化させるのです。

それが本物のジャパニーズクリスタルエンライトメントなのです。

 




  2008/08/23 [13:51] (Sat)

社会を見るのか個人を見るのかで
同じ指標を用いても結果が異なってきます。

過去に裁きを受け続けスピリチュアル業界に参入し
癒しの施し手となっている方々は自分の過去の体験より
裁きを失くそうとします。

しかし、この場合の視点はかなり個人的であり
そこには社会という広範囲な視点が欠けています。

例えば、ある人がりんごを食べたとします。
そのりんごはたまたま腐っていました。

当然ながらそのりんごを食べた人は
りんごが嫌いになり、りんごそのものが悪であると
思うようになりました。

しかし、りんごそのものは悪ではありません。

たまたま腐ったりんごに当たったことを受け入れるしか方法はないのです。
自分の過去を客観化するしか方法はないのです。



裁きを否定する個人主義者の方々は
”裁きを否定する方向”に裁きを入れていることに
気づく必要があります。

裁きを失くすということは
裁くという行い自体を裁かない
判断しないということです。

ですから裁きを拒否している時点で裁きが入っているのです。

ということは裁きを受け入れないといけないのです。

裁きをも受容する、それが本当の意味で裁かないという意味です。


私は裁くことも裁かないことも受け入れています。
なぜなら両方がこの世には存在するからです。

どちらか一方を受け入れるのは愛ではないからです。

結局のところ、未だ完全なる癒しが完了していない方々は
裁き・判断されることを嫌っておりますが
真のライトワーカーとは
裁くことも、判断することも、愛することも
全てを受け入れる度量を持った人たちのことをそう呼びます。

”愛”の対極として”裁き”を認識している時点でそれは裁きなのです。
100%矛盾しています。
だったら最初から裁きはあると受け入れたほうが論理的ですし正しい。
それを受け入れられないのは過去の体験に囚われている証拠なのです。


これは施術を行われるほうの認識としては当然でしょうが
施術を施すヒーラーとしてはどうかと思います。

一般的にスピリチュアルとは癒す側、癒される側
両方のことを意味しますが
癒される側での認識で癒す側に回ってしまっては
クライアントが大変です。
ヒーラー自身が癒されない過去を
クライアントを使って癒されようとするからです。
(意識していようがしていまいが)

芸能界などはそういう傾向が多々あります。
認められなかった過去を認めてもらうために
有名人になろうとする。
これは会社経営者などにもあてはまります。
完全に癒されている人間はナニモノにもなろうとはしません

これがヒーラーの最低条件でしょう。
癒しの入り口です。

スピリチュアルはそういうディセンションな領域ではありません。
癒し手側がしっかりとアセンテッドしていなくてはなりません。

アセンテッドとは”完全に癒されている”という意味です。
だからアセンテッドマスターと呼ばれるのです。

少なくとも日本の今のスピリチュアルはこの境界線を認識できていません。
なぜならこの境界線さえジャッジしないことがスピリチュアルだと
考えている始末ですから。

自分に都合のよい情報を仕入れて自分を正当化することは簡単でしょう。

しかし、癒し手になるということは自分のその不調和なエネルギーが
暴かれるということでもあります。

それを知っていくのもスピリチュアルでしょうが
それは癒される側での認識であり
癒す側には回ってはいけないのです。

自分にとってはOKであっても
社会にとってはNGです。

NGだから自分はだめだ、ではなくて
OKになるためには何を実践し、どう行動していけば良いかを
考え、実践すれば良いのです。

自分が受け入れられないのは
自分が他者を受け入れられないことから始まります。

過去の自分にこだわらず
他人のアドバイスに耳を傾け
とにかく実践し、自分を捨てることこそが必要なのです。


この世には光も闇も、善も悪も、愛も裁きもあるのです。
全てを受け入れる事がライトワークなのです。
闇を隠し光を宣伝するだけでは、ワンネスなど到底無理でしょう。
自然界に存在する2極対極のもの、それらをひとつに認識し融合する事は
ライトへワークへの入り口に過ぎないのです。

その彼岸に多様性あふれるヤオヨロズの世界が広がっているのです。


癒されなかった過去のために何かを消そうとはせずに
今、社会にとってどういうエネルギーが必要なのか?
それを突き詰めていくのが真のライトワーカーというものです。

その手段として愛も裁きもあるのです。


愛とは自分が赦されることではなく
赦されなかった自分のような子供たちを
少しでも減らしていくことなのです。

自分という個人を見ず、社会という大きな器を見てください。

私たちは大人にならなければならないのです。

 




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政治/経済、宗教/哲学を基本としながら市民活動やスピリチュアル活動など、広範囲に動いております。行動範囲は今のところ、東は茨城県から西は中国四国地方までです。特に修験色の強い山間部の地域活性化に興味があります。該当自治体の担当者の方からのご連絡お待ちしております。どうぞよろしくお願いします。
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