個人セッションやクオリアの準備などで忙しく、クリスタルの更新ができないので楽しみにして頂いている方には非常に申し訳なく思います。
巫女の方たちとの個人セッションでは、あまりにも濃密な情報と本質的洞察が行き来するので、それをまとめるのに手一杯で、このブログも更新が滞っています。
その中で、どうしても書いておかなくてはという衝動のものがありましたので、書いておきたいと思います。
『アグリ・あぐり』という言葉が、ここ2・3日強くなってきまして、先ほど抜けきりました。
最初はアグリカルチャー?、鈴木アグリさん?とか思っていましたが、日本での真珠採取は、主に阿古屋貝(アコヤガイ)からだそうで、このアコヤの語源が愛知県阿久比町(あぐいちょう)の古い地名・阿古屋にあるらしいのです。
アグイは愛知県東部の豊川の旧名・飽海(アクミ)とも渥美(アツミ)ともつながり、両者が安曇氏との関連も指摘されていますから、アグイはアマクイ(海クイ)「ヤマクイの逆」でもあるかもしれません。確かに海(アマ)を食って天(アマ)の星のような真珠を産み出すわけですからアマグイでもありますね。
また、アコヤとアグリは舌を巻いて(アクュルャ)と読むとアコヤともアグリとも聞こえて、これはスセリとサスラが(スェセゥレ)と舌巻きで同じように聞こえるのや、葛城とケツァルコアトルが(クワァツラ)の響きを持っているのと同じになります。詳しくは秦氏の20進法も参照してください。ちなみに平安時代の平家の読みもヘイケではなく、下唇を噛んで(フェイケ)であったと思います。(ヘイケではなくフェイケであったというところまではアカデミズムの認知領域です)日本の地方では未だに、この巻き舌系の発音をするところがあります。
さて、真珠ですが、台与『ウィキペディア(Wikipedia)』が中国に266年頃に朝貢したとされています。
卑弥呼の親族であった台与ですが、真珠というキーワードで解いてもその名前から解いても、四国と九州の間の豊後水道か、伊勢志摩、三河しかその出自はありえないということになるかと思います。
*****引用始め*****(邪馬台国の会より)
『倭の地は温暖で、冬も夏も・生(野)菜を食する。
(倭国は)真珠・青玉を(産)出する。その山には、丹(あかつち)がある。
・薑(しょうが)・橘(たちばな。または、こみかん)
・椒(さんしょう)・みょうががある。
父子や男女による (区)別がない。
人の性(情)は、酒をたしなむ。
盗窃(ぬすみ)せず、諍訟(うったえごと)はすくない。』
*****引用終り*****(邪馬台国の会より)
一応、上記が弥生後期の倭国の描写ですが
①温暖=黒潮ですし
②真珠=四国・九州・伊勢湾付近ですし
③橘=和歌山県、三重県、山口県、四国、九州の海岸に近い山地にまれに自生する『ウィキペディア(Wikipedia)』。ですし(厳密には自生可能な北限は西伊豆です)
④丹(あかつち)=中央構造線なので
自然と弥生後期の実像というものが見えてくると思います。この時代の都の最低条件としては、膨大な帆船をとどめて置くことのできる内湾と黒潮直結の外洋型都市です。
さらには、八面と安曇(Aquarius 安曇)でも書いたように、真珠・台与の濃い地域は、八面つながり、安曇つながりでもあります。
さらに大宰府-土佐-愛知県阿久比は、菅原道真-菅原高視(道真の子)-菅原雅規(まさのり)(高視の子)の菅原3代でつながっています。
菅原高視『ウィキペディア(Wikipedia)』については天満宮と北極星も参照。
菅原雅規(まさのり)は英比丸(あぐいまる)「洞雲院 -とううんいん-知多四国八十八か所巡り」とも呼ばれていたらしく、この奇妙な一致の裏側には、八面と安曇氏、そして宇佐神宮の源信仰である北極星信仰が隠されているのです。
この北極星信仰がなんであるかと言えば、宇佐神宮の大元信仰の三体妙見の真ん中の柱・ヒメ大神であります。これが伊豆の白浜神社のご神体でもあるので、明らかに邪馬台国は東遷していますね。
そしてその邪馬台国の後継大王が両面宿儺であり、八面大王であり、国巣・土蜘蛛であるというのは、ほぼ確実ではないかと思います。国巣(クズ・クルス)に関しては前回の記事聖母マリアと瀬織津姫などで詳しく説明しています。
また、纒向遺跡から出土した土器の49%が東海地方のものであるので、東海地方の人たちが纒向を造成していったというのが合理的な考え方であり、地政学的にみて、東海地方の人たちは西四国の勢力と同盟関係になければ豊後水道から朝鮮半島へ抜けられないため(鳴門・瀬戸内経由はありえない)、八面・安曇ライン(北九州・南四国・伊勢湾)は弥生後期の神話勢力であったであろうことも容易に想像がつきます。
ちなみに巻向の原型は、東にオシホ(ナギル湖面の太陽)、西に砥神(渥美半島)、北に中央構造線の”巻き”がある愛知県東部の石巻であり、弥生後期の帆船戦争の時代にも遜色ない地形があります。
しかもそこは、橘逸勢が承和の変で伊豆への護送途中に亡くなった場所でもあり、三ケ日みかん(橘)の産地でもあります。橘東端のメタファーが3回重なっています。
弟橘媛(おとたちばなひめ)『ウィキペディア(Wikipedia)』は、浦賀水道で入水したとされていますが、本当は浜名湖ではないでしょうか。古代の橘の東端が三ケ日であり、東からの太陽の光と西からの「みかん」が出会う場所が浜名湖であったのです。言ってみればみかんは大地からの恵みであり女神でもあります。本当の神話は、みかんと太陽が冬至の日に浜名湖で出会うというものではなかったでしょうか。伊勢神宮のハハキ神は、冬至の日の出・太陽神の復活を意味しており、みかんと太陽の逢瀬をも意味しているのではないかと思います。
美濃国二之宮の伊富岐神社(いぶきじんじゃ))『ウィキペディア(Wikipedia)』の社殿はちょうど浜名湖を向いており、浜名湖の西部にはアラハバキ『ウィキペディア(Wikipedia)』を祀る社も多く存在します。三河一之宮にもアラハバキ社があるくらいですから。なぜヤマトタケルが伊吹山の白猪に祟られて亡くならなければならなかったのか?その答えは、太陽神と「みかん」の女神との和合が果たされ、風が吹く時に日本人の心に蘇ってくることでしょう。
日本書紀が編纂されて、真実を主張していた最後の人たちが菅原家であったと思います。しかし、それ以降は民衆も抵抗できなくなり祟りと天神信仰が根付いたというのが内幕でしょう。
大地のメッセージを聞く人たちが急激に増えているので、この勢いは、もう誰にも止めることはできないと思います。
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