皇極天皇3年(644年)7月に常世虫教事件なるものが発生しています。
ちょうど大化の改新が始まる1年前です。
下記ページにも少し記載されています。
死生観『ウィキペディア(Wikipedia)』
橘にくっついた虫を富士川あたりの住民が常世の虫であると騒ぎ始めたのです。
家財を打ち捨てたり、踊ったり騒いだりしたようですが、これは明治維新直前の1867年に起ったええじゃないか踊りに酷似しています。
それほど世の中が混乱していたことが伺えます。
ええじゃないかは大政奉還の年に起きており、長い間続いた江戸幕府の支配から解放された人々の開放感が乱舞へと向かわせたのではないかと思います。
しかし、常世虫教事件は日本書紀の皇極記を見ると、そんな状況ではなく隠遁とした時代で踊っている場合なのか?という状況なのです。
言ってみれば644年は日本書紀によれば2・26事件の直前のような時期であり、そんな時期に関東でお祭り騒ぎが起るのはどうも不自然なのです。
これに対する私の解は、この皇極期に奪取されていた大和の王権が、大和の血統に復活した(大政奉還された)のではないかと思うのです。しかし、また奪取される(斉明天皇暗殺)
ちょうど橘は伊豆が北限であり、永遠に枯れない皇孫の血統を意味するものです。
その橘につく虫を仰ぎ、乱舞するのは、単なる新興宗教の仕業では片付けられないものがあります。しかも伊豆周辺は弟橘姫伝説も豊富。
皇極天皇が大化の次につけた元号は白雉であり、徳島県三好市池田町にも白地(ハクチ)という地名があります。この徳島のハクチは戦国期に四国最大の要所になっており、近くの山に登れば四国と瀬戸内のかなり領域を見渡すことができます。しかも何かの折には吉野川を下って一気に落ち延びることができる最高の要塞です。秀吉軍と長宗我部軍の最終決戦場でもあります。
しかもすぐ北西の海際には661年に立ち寄ったとされる磐瀬行宮があります。
高知の朝倉もリアルな斉明天皇伝説があり、膨大な帆船を停泊させてくことができる港沿いです。高知の場合も風待ちをしてすぐに東に落ち延びる事ができます。
畿内に都を置いてしまえば瀬戸内から一気に攻め込まれた場合、逃げ切って再起を計れません。
明らかに斉明天皇は戦争のできる女帝でした。神功皇后を彷彿させます。その斉明天皇が狂心(たぶれごころ)の天皇とされ、突然死するのはあまりにも怪しいのです。
そして、その後の天皇の都の置き方は日本書紀の記述が正しいとするならば、あまりにも愚鈍過ぎるのです。
天智天皇の近江大津宮が本当に琵琶湖湖畔であれば狂気の沙汰でしょう。それほど古代の日本人は愚かではありません。潮を読み風を読み、港となるべき地を知っていたはずです。
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