フレイ・フレイヤのつづら織りにも書きましたが、太陽神と大地母神の結婚譚ですが、もう少し、高知の朝峯神社で読み解いていきたいと思います。
高知県にあります朝峯神社は浅間神社の勧請であるとされていますが、つじつまが合いません。
富士山周辺における浅間信仰とは富士山そのものの神格化であり、高知の朝峯神社のように、県内の酒造メーカーが挙って女陰石から湧き出す水を酒に入れているというような信仰は、浅間信仰ではなく、どちらかと言えば、修験道的であり、縄文的な感覚です。
そもそも、この朝峯神社は富士山と呼ばれており、湾の反対側の『孕のジャン!』と組み合わせれば、太陽神をおびき寄せるために、酒を造り始めたというストーリーが浮かびあがってきます。
祭神はコノハナサクヤ姫ですが(コノハナは岬を意味し、サクは裂くという意味)、海に突き出したコノハナの先端に女陰石があり、そこから湧き出す水を、酒に醸造させて太陽神に差し出す。そしてそれを太陽神が受け入れれば、大地は連綿と命をつなぎ、大地と太陽神の誓約によって、大地は不死身となるのです。この不死身の信仰を生み出すコノハナの山が不死山(フジサン)として呼ばれるようになるのは必然でしょう。
徐福が求めていたのはこの縄文の太陽信仰のことではないかと思います。
こういうストーリーがこの朝峯神社の祭神・配置・古信仰から浮かび上がってくるのです。
古代の日本人は、単に男根を意味もなく祀り上げていた未開人ではなく、非常に論理的で現実的な信仰を持った哲学性に富む人種であったことが伺えます。
生命誕生の感動と、命への感謝が、このような素晴らしい信仰に向かわせたのでしょう。
この太陽信仰にはファラオ(王)は存在せず、人間も他の生命と同じレベルで見られています。ただし、白髭のツクモガミはいます。そのツクモガミであるオサ(長)がクニを統制していたのでしょう。
従ってこの太陽信仰はオリエントの太陽信仰が入ってくる前の純粋な縄文太陽信仰と言えるでしょう。
日本にファラオは必要ないのです。全ての生命は同等なのですから。
太陽神でさえ縄文人は特別視してません。神格化させていますが酒で釣って、大地と性交させて自分達の住む土地を安定したものにしようとしていたわけですから、ものすごく論理的です。
神は神という機能を持つだけで、存在という意味においては、人間と変わらないと考えていたわけです。このスタンスは驚きでしょう。かなりのインテリジェンスがないとこういう風にはなりません。
野蛮人・未開人というのは神の神威を感じるとひれ伏したり、恐れおののいたりはしますが、インテリジェンスがあれば、それがどういう存在で私達人間とどう関わっているかを認識できるわけです。
ここに書いてある太陽信仰を行ったとされる人たちは、神を祀ってはいますが、ある意味、科学的であるといったほうが良い部分もあります。
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