昨日書きました西宮=斎宮の部分を広げてみたいと思います。
斎宮『ウィキペディア(Wikipedia)』
上記ページにも記載されているように、賀茂神社とも密接に関係しているようです。
バックボーンとして下記記事もご覧頂くと理解しやすいかと思います。
室生・天河巡礼 ~ 室生編 ~
天満宮と北極星
土佐神社の記述が日本書紀に出てくるのは天武天皇に神刀を献上したというのが最初の記述です。その3年後に上賀茂神社が創建されています。土佐神社は当時、高賀茂社・高賀茂大明神と呼ばれており、京都の下賀茂神社からではなく土佐の高賀茂社から神刀が三種の神器ばりに献上されるのは日本史が正史通りとするならば異常としか言いようがありません。
さて、この斎宮(斎王)制度、天武天皇の頃から制度化したようです。
これらのことと室生に処女懐胎の思想が持ち込まれ、日本古来の女神・男神の生殖が失われたのは深い関係があるでしょう。
***引用はじめ
どちらの行程も最後は船で淀川を下り、難波津で禊を行った後河陽宮を経て入京した。また、古代の斎宮については、酢香手姫皇女だけが、任を終えて葛城に移ったと記されている。
***引用おわり
しかも斎宮と淀川は密接な関係にあり
淀川=天の川
磐船神社=イザナギ東宮(彦星)
廣田神社=イザナミ西宮(織姫)
の傍証になり得る。
また酢香手姫皇女だけが、任を終えて葛城に移ったとされていますが、兵庫県の西宮(斎宮)から葛城に移ったのではないかと思います。他の斎宮は朝廷にとって都合の悪い中国・四国地方にも分布しているのではないかと考えられます。
伝承の域を出ませんが、国内最古の寺と伝承される姫路の鶏足寺ですが、神功皇后伝説やピラミッド山・巨石を分析してみるにつけ、中山寺との関連も含めて考えると、やはり正史はかなりおかしいとしか言いようがありません。
中山寺が安産の守り神なのは東宮の葛城と斎宮の廣田が最初に産んだ子がヒルコであるからであって、廣田神社の祭神アマテラスの荒御魂は瀬織津姫であり、西宮神社の祭神ヒルコとは親子関係であるから、廣田神社は西宮神社の本宮とされているのです。イザナミ(瀬織津姫)の最も近い場所にヒルコが存在するのは理にかなった配置なのです。
また、別府・道後・有馬温泉は大己貴命と少彦名命で繋がっており、聖徳太子とされる人物や古代の天皇も道後温泉には度々訪問し、西宮の記述が正史に出てくる時には既に貴族院の間で西宮はかなり信仰されていたことも含めると、西宮=斎宮の裏には西国の消された歴史があるような気がしてなりません。
瀬戸内の歴史とは瀬織津姫だけでなく、温泉のようにぶくぶくと湧いてきて煮えたぎるようなものだと思います。
高知の秦泉寺からも考察できるように、初期仏教寺院は古墳時代からスムーズに移行する形で建てられています。相反する思想がなかったのでしょう。
それを牽制するかのように畿内の仏教寺院が建てられ、最終的にはローマの帝国主義を含む処女懐胎の仏教思想が神社を巻き込む形で畿内で醸成されていきます。(鎌倉時代でさえ仏教寺院の勢力図は畿内中心ではありませんでした、各地方に建設された国分寺は単なる国の出先機関で信仰の中心になり得るはずがありませんでした、畿内に負けるとも劣らない大伽藍の寺院は各所に存在しました)
これが天武朝で完全に確立され、日本らしからぬ権力による中央集権体制が敷かれました。
私たち日本人は本気で自国の歴史を取り戻さないといけないと思います。
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