何度も言うようで申し訳ないですが、また書かせて頂きたいと思います。
都佐坐神社(土佐国土左郡)(神道・神社データベース)
675年 土左大神(土左高賀茂大社)天武天皇に神刀を献上
678年 京都上賀茂神社創建
686年 秦忌寸石勝を遣わして(土左大神に)幣を於く
(686年 天武天皇崩御)
764年 昔、雄略天皇の時代に一言主は土佐に流された。
だから賀茂朝臣田守は一言主を大和国に連れ戻した。
764年~850年 奈良高鴨神社創建
となっています。
雄略天皇の時代に一言主が土佐に流されていたのだったら、わざわざ神刀を献上させたり、秦石勝を遣わしたりせずに、天武天皇は一言主を連れ戻すだけで良かっただろう。
しかも、天武天皇は病気であったとされていますが、なぜ、わざわざ流された神の鎮座地である土佐に使者を出す必要があるでしょうか。
一言主の神通力が欲しければ、後の世で賀茂朝臣田守がやったように一言主を連れ戻せばもっと神通力を得られたはずでしょう。
上のことを分析すれば一瞬で答えが出ます。
天武朝までは賀茂の本体は土佐にあり、『続日本記』が書かれた8世紀の中旬以降に完全に土佐封じ込めの思想が完成したということでしょう。
このことと賀茂氏が時代が下るにつれて皇室への影響力を弱めていくのは同じ意味を持っているでしょう。(これは「土左大神(土左高賀茂大社)天武天皇に神刀を献上」の神刀が草薙剣であったことの傍証にもなり得ます)
そして、聖武天皇が土佐を含む遠国を流刑地に設定して、流刑地史観を醸成させていくのです。
しかし、飛鳥の都(橿原神宮の南)の最も重要な場所に土佐・下土佐・土佐街道という地名が残っているように、土佐から移住した賀茂族が飛鳥の都建設にたずさわっていたのは間違いがなく(飛鳥は高知市中央部の創りと同じ配置)それを流刑地史観で封じ込めようとしたのは、明らかな政治的な政策なのです。
一言主は大和国から土佐に流されたのではなく、朝廷が公然と土佐から一言主を誘拐するために『続日本紀』の中で作られた創作話なのです。
姫路の廣峯神社の牛頭天王も誘拐されていますし、このような『誘拐&歴史の改竄』というのは探せばいくらでも出てきます。
神というものは地形に宿りますから、湿地帯であった京都や奈良の平地に様々な古代からの神が集合するというのは明らかに権力による操作があるのです。
それぞれの地域が声を上げていかないと、産土神を失った魂の迷走は果てしなく続くと思います。
京都には京都の、奈良には奈良の、伊勢には伊勢の、出雲には出雲の、高千穂には高千穂の、権力に創作される以前のオリジナルの神がいるのです。
『日本書紀』や『古事記』に自分のアイデンティティを投影するのはやめましょう。文字はあくまでも文字。
大地を感じれば産土神は見えてきます。
誰かが優っていて、誰かが劣っているということはありません。全ては平等であるし、全ては自由なのです。それが修験道の本質でもあるし、自由民権の本質でもあるのです。
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