昨日から色々と動きがあったのですが、かなりはっきりと見えてきているものがあります。
目をそむけようと思っても見せられるというか動かされています。
1月15日に廣田神社に行った時に相変わらずのユグドラシルのメタファーをもらいました。
泉の前のご神木なので明らかにノルンというメッセージを受け取りました。
その後、境内の中に不思議な石碑を見つけまして、ここでは書けませんが
聞いたことはないけどすごい神さまの名が刻まれておりまして意味はわかりました。
※ノルン※=宗像三女神というのは以前書きましたが(古イスラムが北欧神話とルーツをひとつにしていることから以前は宗像三女神を古イスラムの神に設定してました)、なぜ廣田神社に建御名方神が祀られているのかが今日、はっきりとわかりました。
<ミナカタ=ノルン=私が追ってきました三体妙見>なんですね。
ノルンには、ウルズ/ヴェルザンディ/スクルドがおりまして、それぞれ
fate / ~になるto become / ~だろうshall
(過去) (現在) (未来)
を表しているとされます。
その場所に立った時、半ば枯れている泉を見ましたが過去の泉の姿が見えましたので水が流れてくる丘の上のほうに行きましたがマンションが建っていました。
しかしその後、不思議な石碑の前に置かれているお供え物を見ました。神主さんに聞きましたが神社としては祀ってないとのこと。泉が枯れても現在があるのです。
そして、神木の前に落ちている黒い羽根により未来を見せられました。
あれから記事を書くごとに今、良いものと悪いものが出てきているので、悪いものにとらわれずに良いものとつながらなけれらばならないと書いていましたが、それでは、良いものとは具体的にはどういう存在なのか?という問いが私の頭の中を駆け巡っていました。
セラフィムのテキストを書かなければならなかったので深く入っていきますと、すべての糸を見ざるを得ない状況になりました。
結局は、やはりラジエルでした。
神武天皇が廣田のナガスネヒコに進路を阻まれて多度大社付近から橿原を目指している光景がはっきりと見えてきます。(ひとつのファンタジーとして受け取ってもらえれば^^;)
2つの両方の地域にラジエルとユグドラシルが関わっています。もちろんミナカタ(宗像三女神)も。
問題は全然終わっていなくて、ノルンが運命の糸を紡いでいるのですべてが、現在へとつながっているのです。
記事にも貼り付けました天津祝詞の中で【天津神/国津神/八百万の神たちともに、、、】という部分があります。
これがすべてを表していると思います。
この動きが国内だけではないということも同時に認識しました。
私が最も好きな哲学書『※存在と時間※』(ハイデガー)の中で、20代の頃、私の衝動を最も動かした「現在は未来より生起する」という言葉があります。
これを私も当時から感じていて、それは単にfate(運命)ということではなくて、時間という概念は最近作られたものであるので、その認識を消し去れば現象は常に古くならないはずなんですね。
だからこそ、その場において私はメッセージを受け取っています。
つまり2011年(未来)の私が2000年前の古代(現在)を作っているということなんですね。
逆に言うと2000年後の誰かの行動が、2011年の私たちの行動を後押ししているということです。神社に行って何かわからないけど、こうしなければいけないような気がするということを感じた人はいませんか?
私たちの直観/行動は現在過去未来を通してノルンによってつながっているのです。
つまり、私たちの今の行動が過去の歴史を変える力を持っているということです。
そう考えなければ、今、メッセージをもらってることへの説明がつきません。私はいつの時点かもわからない未来のために活動しているわけではなく、現在を変えるために活動しています。
それにしても古代の哲学性というのはすごいです。
おそらくイワナガ姫(過去/fate)、コノハナサクヤ姫(現在/to become )、コノハナチル姫(未来/shall)の問題も、この時間認識を超越しないと真の意味というのはわからないと思います。
※印で囲んだリンクは全て『ウィキペディア(Wikipedia)』からの引用
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いつも深い見地からの記事をありがとうございます。
最近は「今ここ」に囚われ過ぎていて(でも、悪い意味ではなく)hibikiさんがここで仰っている「未来からの生成」が、何か大切なものを思い出させてくれたように思いました。
私の個人的な考えでも、時間は存在しないものと思います。時間が無い以上、恐らくこの瞬間も、過去でも未来でも、どの時点に於いても私たちは生きていると、そのような気がいたします。
よって、今が過去の認識を変え、その過去の認識が未来を創り、それが今を生成しているという事なのかな、と思いました。尤もこの順番は一例に過ぎず、現在、過去、未来はもっと柔軟なものであろうとも思います。結局、私には「認識」・・・どうそれをどう捉えるかによって変わるもの、創造さえするものという考えが元にありますが、hibikiさんの仰りたいことは、また異なりますでしょうか?よかったら教えて下さい。
書き込みありがとうございます。
私もブログのほうに時々お邪魔させて頂いております^^深い部分を刺激してくれる文章に感銘をおぼえます。ありがとうございます。
>現在、過去、未来はもっと柔軟なものであろうとも思います。
おっしゃる通りであると思います。時間性は現象(物質)が変化していくことが絶対条件になりますが、水は巡り巡ってまた同じ場所に戻ってきます。つまり過去が現在であり、未来が過去であるということだと思います。
>結局、私には「認識」・・・どうそれをどう捉えるかによって変わるもの、創造さえするものという考えが元にありますが、hibikiさんの仰りたいことは、また異なりますでしょうか?よかったら教えて下さい。
jyoceさん言われているのはスピで一般に言うところの『自分が変われば世界が変わる』という考え方と近いけれども、もっと進んだものだと思います。
私も”認識論”としてよく紹介しているのですが、上記の考え方は最終的に『自分が変わっても世界は変わらなかった』という大きい壁に当たるときがやってきます。
その後のことをこのブログでずっと書いてきているのですが、おそらくその部分をjyoceさんも言われているのだと思います。だからこそ時間という現象自体に興味をもたれているのだと感じます。
たとえば、もし仮に”私的な神聖さ”が世界を変える(創造する)のであれば、既にマザーテレサの時代に世界は神聖さを取り戻していたと思います。しかし現実は最も凄惨な戦争がありました。
その結果をもって私もニーチェと同じように『神は死んだ』とも感じるわけですが、それをなんとか時間性の超越で神の復活を果たそうとする、ある意味私的な思想活動かもしれません。
私は、信仰を持つ一方で、極度な現実主義者ですので、一般に人間が宗教にはまるようなルートで宗教的になれない人間です。
完全な論理と現実的な恩寵の中にこそ神聖さが宿ると考えているので、ちょっと小難しい説明になりましてご迷惑をおかけ致しております^^;
カトリック教会に行きましても論理が破綻しているロゴスに何の意味があるのかわからなく、その教会のキリストの実在自体を疑ってしまいますが、それを純粋に熱心に信仰している信者の方たちには神を感じてしまいます。。。
ちょっと話がそれてしまったように思いますが^^;今後ともどうぞよろしくお願いします。
早速にご返答ありがとうございました。
あの、とても良く解りました。。。と申しましても「では、こういう事ですよね」と言語化までは私の筆の至らなさもあって正直難しいですが、でも理解できたように思います。
そうです。私も今回気が付きましたが、認識論がかなりの割合で私のベースになっているようなんです。そしてhibikiさんの仰る「大きな壁にぶち当たる」・・・正に仰るとおりです。それでこれは違うのではないか?と思想的にも節操無くチョロチョロよそ見してしてまっていたという。。。
>時間性の超越で神の復活を果たそうとする、ある意味私的な思想活動かもしれません。
いえ、このhibikiさんの観点は衝撃でした。上手く言えませんけれど、これが人の神聖さや尊厳も非常に濃くリンクするものだと強く思いました。
>完全な論理と現実的な恩寵の中にこそ神聖さが宿ると考えているので、ちょっと小難しい説明になりましてご迷惑をおかけ致しております^^;
とんでもありません。紛う事なく心より共感しました。そして本当にありがとうございました。こちらこそ今後ともよろしくお願いいたします。
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