個人主義と地域コミュニティでも書きましたように、現代日本社会では、個人を突き詰める自由性は蔓延しているのですが、それを全体で共有するという平等性は、欠如しています。
人間は誰しも、自分のルーツを知ろうとしたり、自分の役割を知ろうとしたり、自分だけの価値を見つけようとモガク生き物です。それが自由と平等という価値観の『自由』にあたるわけですが、それだけでは、人間は孤立してしまいますし、思考的になりすぎてしまいます。
その『自由』を一時的に不自由にして全体性に戻してしまうのが『平等』であり、日本における『祭り』の概念になります。
『祭り』は一般的に非日常であり、踊りや唄をともないます。それは踊りや唄を歌っている場合は、思考が停止し平等性が一気に高まるためです。
この思考停止状態の直観力を研ぎ澄まそう!ということで当初、直観が大事、直観が大事と繰り返し言っていましたが、それで何が起こったかと言えば、スピリチュアル業界では『直観だけが大事』という風潮になってしまい、思考することが悪であるかのような構造ができあがってしまったのです。
何が悪かったのかを考えてましたが、高知に帰省した折に、よさこい踊りや地元の人とお酒を飲んだりしていてピンとくるものがありましたので、書きます。
高知でお酒を飲む時、ひとつのテーゼに対して『あなたと私はこういう部分で意見が違うんだよ』という議論が延々と続きます。でも時折、『あなたと私はそれでも同じ地域に住む同士なんだよ』ということで(献杯・返杯という酌が繰り返し入る時もあります)和やかに議論が続いていきます。
このように、日本の古い文化の中では、『自分を突き詰める自由性』と『他者と何かを分かち合う平等性』が共存していたことがわかります。
しかし、現代社会は『自由』ばかりがクローズアップされ、他者と何かをわかち合ったり共有したりすることが極端に少なくなっています。
この平等性というのは、単なる付和雷同型の平等性ではなく、『和して同ぜず』の深い認識を持った平等性ということになると思います。
そこにはやはり民族主義的な認識が隠れているとは思います。
現代社会で問題になるのは、この平等性であり、自分の関心のないことでも一緒に楽しもうとする、人なつっこさではないかと思います。
この平等性を瞬時に体感できるのはやはり踊りであり、祭りに踊りが付随するのはこういう理由があるのだと思います。
自由→議論→酒(神)→踊り(高知ではよさこい)→平等という精神を存立せしめる構造の成り立ちは、西洋(特にフランス)とほぼ同じであり、日本と西洋とはルーツを同じくする民族が根を張ったのではないかと推測すらできます。
高知のよさこいを移植した北海道のよさこいソーランでは、チーム同士がいがみ合うということも稀にあるらしいですが、高知ではそのようなことは皆無であり、民族主義的な同族意識が非常に強くあり、平等性が確立されていると言えます。
この平等性には、古くは日本建国時の精神が含まれているはずで、現代社会から欠落した平等性を取り戻すためには踊りは非常に有効な手段であると思います。
要するに、非日常である直観力と日常である思考力の両者が必要であり、大事なことはその両者のバランスなんですよ、ということです。
直観力だけでは社会は変わりません。社会を変えていくためには、政治的・経済的プロセスがなければ全て画餅です。また逆も真なりで、思考力だけでは社会を変えていくことはできません。なぜなら、あなたは私と同じなんですよという一体感がもたらされないからです。
これを人工的にもたらせようとしたのが明治時代の国家神道であり、忠君愛国の精神強要なのです。しかし、一体感は自発的にもたらされなければならず、楽しくなければ何事も続かないのです。
明治時代の自由民権運動が、自発的自由主義的政治運動だったわけですが、現在でも同じものが求められています。よさこいが受け入れられる背景には商店街や自治体のお財布事情などもあるでしょうが、もっと本質的な部分に言及するならば、日本人は権力に強要されない愛国心を求めているということになると思います。
『よさこい』は忠君愛国が明記されているはずがありませんが、非常に愛郷心の強い人たちによって運営されています。
ただその愛郷心は高知という限定された地域に根ざしているわけではなく、自由と平等という普遍的価値に愛郷心が載っている点が最も面白いところだと思います。
まさに、ここが日本人のルーツであり、『祭りの本質とは何か?』の議論が老若男女問わず繰り広げられるのは、高知の珍百景でしょう。
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