忍者ブログ
古代神や古代聖地をご紹介し、神仏基に対する信仰を再生して頂くお手伝いをしています。
  2025/01/24 [17:32] (Fri)
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。




  2008/08/30 [23:45] (Sat)

なんや色んなとこに書き散らしてわけがわからなくなってきましたが
白山(鶴)、四国(亀)のツルキラインの説明でも

鶴は吊るすという動詞の語源になっただろうと仮定します。
そして
亀は噛むという動詞の語源になっただろうと仮定します。

吊るすという語を使うとき
私たちは吊るす側に認識を置きます。

そして
噛むという語を使うとき
私たちは噛む側に認識を置きます。

能動態というものでしょうか。

両者を受動態にすれば
吊られる、噛まれるということになります。

しかし、吊るす噛むは
一方が上へ引っ張る(持ち上げる)エネルギー
一方が下へ引っ張る(引き込む)エネルギーで
両者が能動態のままで拮抗する事があります。

(釣りをしている人たちはわかると思いますし
日本の綱引きも
この鶴亀の認識と深いつながりがあります。)

この時、第三の目が出ます。
神の目です。

吊るす噛むという主観
吊らされる噛まれるという客観
を超える視座が鶴亀の拮抗で発生します。

目が出るので鶴亀はメデタイと言われます。

この鶴亀(ツルキ)は後に剣(ツルギ)に変化しました。

2つエネルギーが拮抗する剣
刃の部分が鶴でグリップ部分が亀です。

剣が3種の神器のひとつとされたのは
このためです。

目が出る鶴亀のエネルギーを拮抗させる人間こそ
スメラミコトにふさわしいとされました。

もちろん当時、天皇は万世一系などではありませんでしたので
哲学性の高い人が大王へと担がれました。

そういう哲学性を積む事が古代では誉れとされていましたので
目を出す認識を持つ人が現れれば熱狂したわけです。

それだけ哲学性を持つわけですから
剣を持つ者はもちろんクニをうまく治められるわけです。

草薙の剣はこういう時代の認識を携えた最後の剣でしょう。


とにかく、祝!鶴亀ラインということでしょう。

メデタイのです。


鶴の恩返しと浦島太郎なのです。

 

PR



  2008/08/30 [00:34] (Sat)

自分は常々、融合するためには対立が必要だと言っているわけですが
この部分はスピリチュアルの世界ではほとんど理解されないようです。

少し書いておきます。

私たち生命は、何億個という精子の中で
他の精子と対立し競合することによって
この世に誕生します。

この世に生を受けた後も
自らのアイデンティティーを確立し
死する瞬間まで他の生命との競合は終わる事はありません。

しかし、その一方で
男性と女性の融合によって新たな生命は誕生します。

競合は融合によって生まれ
融合は競合によって生まれます。

この2つのエネルギーが同時もしくは
交互に発生することによって
生命は鼓動を続けるのです。

私たちの体内に存在する細胞ひとつをとってみましても
ひとつの細胞が核分裂を起こし、違う細胞として競合しなければ
瞬く間に生命は死を迎えます。

積極的な融合は”生”を生みますが
消極的な融合は”死”を生み出すのです。

この融合とはもちろん愛のことを意味します。
積極的な愛とは社会的弱者を救おうとする積極的な行動です。
消極的な愛とは誰も救わずに愛だけを宣伝することです。


”対立”と”融合”は上下関係にはありません。
これらは並列の関係にあります。

この2つのエネルギーを殺さずに調和させ
生を加速させていく概念があります。


それがククルです。
(現代語のククルと古代のククルとは少し意味が異なります)


ククルは対立でも融合でもありません。
しかし2つのエネルギーを持っています。

ククルヒメが破壊と再生の神であり
いざなぎ・いざなみを取り持つというのは
こういうバックボーンがあるのです。

対立を煽りすぎるのは無益な破壊を引き起こすでしょう。
融合を煽りすぎるのは無益な思考停止を引き起こすでしょう。

どちらかに偏るとククルの本質を捉えることができません。

白山につながるとは、自分の内部において
対立と融合、つまりはいざなぎ・いざなみを
完全調和させることなのです。

その結果、”声”が聞こえるのです。

肉体という器は人間である以上
個々で大差はないですが
その地点を意識するかしないかで
スピリチュアルグロースのスピードは全く違ってきます。

また、虚栄心や支配欲、アイデンティティ喪失があれば
意識していても逆の結果を生み出すでしょう。



 




  2008/08/24 [15:03] (Sun)

”類は友を呼ぶ”という諺がありますが
スピリチュアルの世界でもよく引き合いに出されます。

良いエネルギーには良いエネルギーが引き寄せられ
悪いエネルギーには悪いエネルギーが引き寄せられる。

エネルギーの世界を知ればこれが全くの間違いだということがわかります。

光には必ず陰ができます。
陰には必ず光が差し込みます。

良いとされるものには悪いとされるものが引き寄せられ
悪いとされるものには良いものが引き寄せられるのです。

しかも、良いエネルギーには良いエネルギーが引き寄せられると
考えられているスピリチュアリストたちは
ジャッジメントをしないだとかワンネスが大切だと説きます。

しかし、”良いエネルギーには良いエネルギーが引き寄せられる”と
言っている時点でそれはジャッジメントであり
社会を善と悪の2元論で切り裂いていることを宣言していることを意味しています。

しかもワンネスは全ての統合であり
善と悪との統合も視野に入らなければならないのに
良いエネルギーには良いエネルギーが引き寄せられる
と言いながらジャッジメントはNOと言います。

日本にはこのような得体の知れない新興宗教的な
スピリチュアルがアメリカから輸入されていることに
私たちは留意しなければなりません。

この矛盾というのはアメリカが自由を叫びながら
戦争を仕掛けていることと同じレベルのものです。

そういう嘘と偽善の思考法が大量に日本に流れてきているのです。


神社に行けばわかりますが
自分の肉体を純化すればするほど
悪いバイブレーションに憑依されやすくなります。
そのケガレを落とすのがミソギなのです。

アメリカの思考法とは違うしっかりとしたエネルギー認識が
日本の古代にはあります。

この闇のエネルギーアタックを乗り越えれば乗り越えるほど
自分のエネルギーが純化していきます。

なぜなら闇のアタックが常態化すれば
それほどのことでは動じなくなるからです。
それが闇を受容するという認識につながっていくのです。

ワンネスとはジャッジメントしないことを意味するのではなく
しっかりとジャッジメントをしてそれぞれの存在の多様性を認めた上で
融合するという認識です。

違いを消すのではなく、違いを超えるのです。

ここの部分は現代日本人が最も苦手とするところでしょう。
しかし、戦前まで私たちは普通にこれを実践していたのです。

他人とは違う自分のスタンスを表明することが平和につながるとは
ほとんどの方が認識されておりません。

それがとめどないスピリチュアルの衝突を引き起こしていることに
気づく必要があります。

キリストの原理主義では違いを超えることはできません。
なぜなら彼らの文明は異端者狩りを行うことによって今があるからです。
だからキリストの原理主義が悪いわけではありません。
私たちとは違うのです。

役割をしっかりと認識して世界を融合に向かわせなければなりません。

日本の中でもこのキリスト原理(感謝・愛だけを宣伝するもの)に
洗脳されているにも関わらず神道を称する方々がいらっしゃいます。

気をつけないといけないでしょう。
光だけを宣言するのは穢れです。

なぜなら光であれば自らを光と呼ぶ必要はない。
中身がまるで逆だから”光”と見せたいのです。


TVや本、雑誌に洗脳されていては
いかなるエネルギー認識も身に付かないでしょう。

メディア先行の知の伝達に疑いを持つ事が
知性活性化の入り口でしょう。

それはエネルギーを知っていく上でも重要なことです。

しっかりと自分の中心につながるサポートを
ネルスピ・カウンセリングは行います。


 




  2008/08/23 [19:09] (Sat)

真の意味でジャッジメント(裁き)を失くす方法は
ジャッジメントを拒否するのではなく
ジャッジされても動じない心を養うことである。

ジャッジを拒否するという裏側には
ジャッジを怖れているという事実が存在する。

ジャッジを怖れているからこそ
ジャッジを失くそうとするのです。

ここまで書くとわかると思いますが
ジャッジをなくそうと画策する人たちはジャッジを怖れているのです。
しかし、スピリチュアルとは怖れを手放す旅でもあります。

ジャッジされることを怖れ
ジャッジすることによって傷つくのを怖れ
ジャッジし嫌われることを怖れているならば
それはスピリチュアルではないと自分は思います。

その怖れを取り除く事こそがスピリチュアルなのだと
自分は考えています。

まず自分の内奥に深く入りジャッジされた過去を見つけるのです。
そして傷ついた時に何が起こっていたのか?

自分のまわりに受け入れてくれる人間がいなかったのではないですか?
怖れを強さに変えて生きている大人たちに触れ合う機会が
少なかったのではないですか?

ジャッジしたこと、されたこと、
すること、されることが問題ではないのです。

生きていく強さを養うことができなかった
過去の自分・環境にこそ問題があるのです。

これは個人の問題だけではなく
社会の問題もあるのです。
だから社会的なヒーリングが必要です。

だからといって環境のせいだけにしていても
問題は解決されません。

過去の環境を受け入れ
裁かれても動じない心を養っていくことこそが必要なのです。

裁きをなくそう、なくそうと頑張ってみても無駄でしょう。
この世から悪がなくならないように
裁きもなくならないからです。

裁きから逃げるのではなく
積極的に受け入れ
それを光によってコントロールする
それが真のライトワークというものです。

闇は拒否すれば拒否するほど近づいてきます。

この本質的な原理はご存知でしょうか?

ブロックをなくせばなくすほど
光は集まり、音が伝導します。
それがクリスタルです。

クリスタルは闇を拒否しているから
光を放っているのではなく
闇をも受容しているから闇が近づけないのです。

以前にも書きましたが
闇を拒否し光だけを宣言するものたちには
闇が迫ってくるのです。

これはアメリカの戦争を例えに出せばわかりやすい。
光だけを宣言するキリストの原理主義は闇を引き寄せるのです。

(無意味な正義を宣言することによって
衝突を誘発しているのは誰が見ても明らかです。
本当の自由とは自由を宣言することではなく
自由を与え続けることです。
愛とジャッジメントで自立した大人になることこそが
最高の自由であり愛であるのです。
何かに依存し自分以外のものに囚われる日々ほど
不自由な時間はありません)


闇と裁きを個々人が受け入れることによって
本物のライトが社会に充満するのです。

闇と裁きに動じない強い心を皆が持つことこそが
社会を純化させるのです。

それが本物のジャパニーズクリスタルエンライトメントなのです。

 




  2008/08/23 [13:51] (Sat)

社会を見るのか個人を見るのかで
同じ指標を用いても結果が異なってきます。

過去に裁きを受け続けスピリチュアル業界に参入し
癒しの施し手となっている方々は自分の過去の体験より
裁きを失くそうとします。

しかし、この場合の視点はかなり個人的であり
そこには社会という広範囲な視点が欠けています。

例えば、ある人がりんごを食べたとします。
そのりんごはたまたま腐っていました。

当然ながらそのりんごを食べた人は
りんごが嫌いになり、りんごそのものが悪であると
思うようになりました。

しかし、りんごそのものは悪ではありません。

たまたま腐ったりんごに当たったことを受け入れるしか方法はないのです。
自分の過去を客観化するしか方法はないのです。



裁きを否定する個人主義者の方々は
”裁きを否定する方向”に裁きを入れていることに
気づく必要があります。

裁きを失くすということは
裁くという行い自体を裁かない
判断しないということです。

ですから裁きを拒否している時点で裁きが入っているのです。

ということは裁きを受け入れないといけないのです。

裁きをも受容する、それが本当の意味で裁かないという意味です。


私は裁くことも裁かないことも受け入れています。
なぜなら両方がこの世には存在するからです。

どちらか一方を受け入れるのは愛ではないからです。

結局のところ、未だ完全なる癒しが完了していない方々は
裁き・判断されることを嫌っておりますが
真のライトワーカーとは
裁くことも、判断することも、愛することも
全てを受け入れる度量を持った人たちのことをそう呼びます。

”愛”の対極として”裁き”を認識している時点でそれは裁きなのです。
100%矛盾しています。
だったら最初から裁きはあると受け入れたほうが論理的ですし正しい。
それを受け入れられないのは過去の体験に囚われている証拠なのです。


これは施術を行われるほうの認識としては当然でしょうが
施術を施すヒーラーとしてはどうかと思います。

一般的にスピリチュアルとは癒す側、癒される側
両方のことを意味しますが
癒される側での認識で癒す側に回ってしまっては
クライアントが大変です。
ヒーラー自身が癒されない過去を
クライアントを使って癒されようとするからです。
(意識していようがしていまいが)

芸能界などはそういう傾向が多々あります。
認められなかった過去を認めてもらうために
有名人になろうとする。
これは会社経営者などにもあてはまります。
完全に癒されている人間はナニモノにもなろうとはしません

これがヒーラーの最低条件でしょう。
癒しの入り口です。

スピリチュアルはそういうディセンションな領域ではありません。
癒し手側がしっかりとアセンテッドしていなくてはなりません。

アセンテッドとは”完全に癒されている”という意味です。
だからアセンテッドマスターと呼ばれるのです。

少なくとも日本の今のスピリチュアルはこの境界線を認識できていません。
なぜならこの境界線さえジャッジしないことがスピリチュアルだと
考えている始末ですから。

自分に都合のよい情報を仕入れて自分を正当化することは簡単でしょう。

しかし、癒し手になるということは自分のその不調和なエネルギーが
暴かれるということでもあります。

それを知っていくのもスピリチュアルでしょうが
それは癒される側での認識であり
癒す側には回ってはいけないのです。

自分にとってはOKであっても
社会にとってはNGです。

NGだから自分はだめだ、ではなくて
OKになるためには何を実践し、どう行動していけば良いかを
考え、実践すれば良いのです。

自分が受け入れられないのは
自分が他者を受け入れられないことから始まります。

過去の自分にこだわらず
他人のアドバイスに耳を傾け
とにかく実践し、自分を捨てることこそが必要なのです。


この世には光も闇も、善も悪も、愛も裁きもあるのです。
全てを受け入れる事がライトワークなのです。
闇を隠し光を宣伝するだけでは、ワンネスなど到底無理でしょう。
自然界に存在する2極対極のもの、それらをひとつに認識し融合する事は
ライトへワークへの入り口に過ぎないのです。

その彼岸に多様性あふれるヤオヨロズの世界が広がっているのです。


癒されなかった過去のために何かを消そうとはせずに
今、社会にとってどういうエネルギーが必要なのか?
それを突き詰めていくのが真のライトワーカーというものです。

その手段として愛も裁きもあるのです。


愛とは自分が赦されることではなく
赦されなかった自分のような子供たちを
少しでも減らしていくことなのです。

自分という個人を見ず、社会という大きな器を見てください。

私たちは大人にならなければならないのです。

 




[74] [75] [76] [77] [78] [79] [80] [81] [82] [83] [84
«  Back :   HOME   : Next  »
Spirituality
Social
profile
HN:
hibiki
HP:
性別:
男性
自己紹介:
政治/経済、宗教/哲学を基本としながら市民活動やスピリチュアル活動など、広範囲に動いております。行動範囲は今のところ、東は茨城県から西は中国四国地方までです。特に修験色の強い山間部の地域活性化に興味があります。該当自治体の担当者の方からのご連絡お待ちしております。どうぞよろしくお願いします。
new Coments
[10/26 hibiki]
[10/24 maya]
[10/22 hibiki]
[10/22 maya]
[09/07 hibiki]
[09/06 半端もの]
[09/05 hibiki]
[09/04 ひろみ]
[09/02 hibiki]
[09/02 半端もの]
[08/12 hibiki]
[08/12 ひろみ]
[08/09 hibiki]
[08/06 半端もの]
[07/21 hibiki]
new TracBack
blog lanking
にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ にほんブログ村 経済ブログ 経済学へ ブログランキング【くつろぐ】
search for log
calendar
12 2025/01 02
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
free
忍者ブログ [PR]