昨日の設楽神の続きがまだ、色々とあるのですが、昨日の記事で精魂尽き果てたか、空っぽになっています。
そのせいか、さきほど、お風呂上りに柔軟体操をしていたら魚のマンボーが浮かんできました(笑)
それがなんのメタファーかは今は、考えるのをやめています。
そこはかとなく、なんとなく書いていきたいと思います。つまらないかもしれませんが、いつも難しいと言われるので、たまにはいいかもしれません。
ポータブルDVDは結構、使えると思います。私の持っているものは、SDカードが読み込めるので、映像のついた音楽をメモリに詰め込んで楽しんでいます。
枕の下には、ローズクォーツか、ライトニングクォーツ、水晶エッグ、シヴァリンガムがローテーションしています。
基本は、ローズで、憑依されたときはライトニング、クリアになりたい時は、水晶エッグ、バランスをとりたい時は、シヴァリンガムで寝ています。
シヴァはグラウンディング力でバランスをとるので、回路が開きすぎて情報をシャットアウトしたい時などに良いです。グラウンディングの石と違うのは、直接バランスへと導いてくれる点ですね。
水晶エッグは、意外と知られていないですけれども、すごいです。
ローズクォーツは基本の石で、疲れているときなんかに一緒に寝ますと、奪い奪われている愛の構造なんかが急に見えてきたりするので重要ですね。
まだ、色々とあるんですが、その他はWebSHOPにお願いします、という感じでございます。
結局、宣伝みたいになりましたけど(笑)、皆さん、明日もどうぞお仕事頑張ってくださいね、という感じです。
オチがないので、なんかすっきりしませんが、”落ちつく”という語は、落ちがついてすっきり治まるということなんだなと感じました。
起承転結の結ですね。ということはユイ・ムスビと落ちつくは同じ意味なんですね。
男性と女性が、結び結ばれ、結い結われ、落ちつくというのは、オチがつくということなのでしょうか。
じゃあ、オチってなんでしょうね、落とすって”笑い”と関係してますが、何から落ちるんでしょうか。
”笑い”は、意表をつかれた時に出ますから、”こうだろう・これからこうなっていくだろう”という通常の予測が落ちる前の舞台でしょう。
自分の常識を覆したところに落ちていく、そして結い結われていく。なんか芸術的ですね。日本語って。
今日はとりあえずこのへんにしておこうと思います。
”笑い”も”結い”もアメノマリアのテーマですし。
ツイッターでもいいような内容ですね。
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「G線上のマリア」をサンプリングした1997年の大ヒット曲
Sweetbox の 「 Everything's gonna be alright 」 です。
英語歌詞はこちら(Japan Liten)
和訳はこちら(洋楽歌詞の和訳に挑戦!)の方がうまく訳されています。
さて、先日、熊野について少し触れましたが、熊野と政府の対立は今に始まったことではありません。明治末期の政府の無謀な神社合祀政策『ウィキペディア(Wikipedia)』に反対した南方熊楠(みなかた くまぐす)『ウィキペディア(Wikipedia)』という方がいます。結構、知名度は高いと思います。
一般的な説明はウィキを見て頂くとして、熊楠はボーイズ・ラブの研究も行ってます。熊楠もオトメン線上にあったと思います。熊は熊野の熊、楠は楠の楠、そして楠木正成の楠。楠木氏の氏神は建水分神社(たけみくまりじんじゃ)『ウィキペディア(Wikipedia)』であり、守護神は瀬織津姫。
楠はクズ。クズは九頭龍。東京檜原村の九頭龍神社の祭神は南朝の守護神・九頭龍大神。クズはクロスでもある。そのクロスとは何か?それはマリア。そう、G線上のマリア。G線とは何か?
そう、マグダラ(Magdala)線上のマリア。マリア・マグダレナ『ウィキペディア(Wikipedia)』。
設楽神(apedia)も、またG線上のマリア。
フシダラ、クダラ(百済)、マタラ、ミトラは全てマグダレナ。
マタラ神『ウィキペディア(Wikipedia)』は、広隆寺『ウィキペディア(Wikipedia)』の守護神。
広隆寺と言えば、秦氏。
広隆寺と言えば、聖徳太子。
広隆寺と言えば、百済。
広隆寺と言えば、国宝・弥勒菩薩半跏思惟像
(みろくぼさつはんかし(ゆ)いぞう)
この像を見て、カール・ヤスパース『ウィキペディア(Wikipedia)』は、「人間実存の最高の姿」と表した。
実存とは実存主義『ウィキペディア(Wikipedia)』のこと。つまり、弥勒菩薩半跏思惟像は本質に先行して存在しているということ。それもそのはず、弥勒菩薩半跏思惟像は厩戸皇子(キリスト「本質」)に先行して存在したマリア・マグダレナ(マリア「実存」)。
私の行動主義は、”思想とは行動である”と表明したサルトル『ウィキペディア(Wikipedia)』(1905年 - 1980年)と吉田松陰『ウィキペディア(Wikipedia)』(1830年 - 1859年)の影響を受けている。
431年エフェソス公会議『ウィキペディア(Wikipedia)』で異端とされたネストリウス派のマグダレナは、広隆寺にマダラ神として根付いた。奇しくも、ネストリウスはドイツ人。カール・ヤスパースもドイツ人。そしてSweetboxもドイツ出身。まさにゲルマン(German)線上のマリア。
そして熊楠はオトメン線上。子を産むマリアあってこそ、オトメンは自然を守ろうとする。横棒は音、縦棒は面。2つでオトメンでクロスする。
一は”ひ”(火・日)。剣道ではコテで祓ってメン。イッポン取れば勝速日、ニホン取ればニッポン。
お面をとれば何が現れるのだろうか。世阿弥は”秘すれば花”と言う。確かに半跏思惟像は秘している。
マグダレナは、本当にフシダラなのだろうか。
むしろアタラシイのではないだろうか。
マグダラをミダラにミクダシてしまうようなクダラない見方は、まず日本人からアラタめなければならないのではないだろうか。
広隆寺は太秦(うずまさ)にある。まさにうずうずとしている。うずうずとしているのに半跏思惟像の静寂さはなんだろうか。
ウィキ「エロティシズム」の項で下記のように書かれている部分が自分にもぴったりとはまる。
*****引用はじめ*****
エロティシズムは熱狂的な近しさを表明するものであると同時に、熱狂を抑制する能力を明示するものでもある。この意味でエロティシズムは昇華なのであるが、それはセクシュアリティ(性)からわれわれの目をそらすためのものというよりも、万難を排してセクシュアリティを純化するためなのである。こうしてエロティシズムは一個の芸術となり、生命の律動となる。
*****引用おわり*****
つまり、オトメンの乙女心は、女性に対する熱狂的な近しさの表明であり、その表明は女性に対する男性としての熱狂的な欲情を抑制しようとする美の衝動なのです。それは性から目をそらすためのものではなく、性を限りなく純化するものなのです。こうしてエロティシズムは一個の芸術となり、生命の律動となるのです。
もっとわかりやすく言うと、男性が女性の立場に立って物事を考えるならば、自らの心を女性にしていくしかないということです。それが愛の純化であり、性の純化なのです。その結果、何が起こるかと言えば、女性の心を持った男性が生まれてくるのです。
アイリッシュのオスカー・ワイルド『ウィキペディア(Wikipedia)』は、その究極の形が男色であると言いましたが、私はそうは思わなくて、世阿弥であり、半跏思惟像であると思う。それこそ秦氏が純化させた最高のオトメンの姿・マグダレナなのでしょう。しつこいようですけどガリア(Gallia )線上のマリアですよね^^;
男性にも女性にも熱狂的な近しさを表明し、欲情を抑制する能力を明示した最高の中性的な思惟姿。オトメンとしては嫉妬してしまうほどの愛の純化。その奥に隠されたウズウズと渦巻く”性の欲情”を全く感じさせないほど、性を聖にまで純化し、愛を与える最高の御姿。しかし、マグダレナは生殖をするのです!
この逆説的な衝動が共存するのがマタラ神であり、オトメン。プラトニックでも快楽主義でもないG線上のマリア主義がオトメンの目指している方向なんですね。
なんか複雑すぎてよくわからない部分もありますが^^;
でも、この逆説こそ、日本哲学の最高峰・西田幾多郎『ウィキペディア(Wikipedia)』の絶対矛盾的自己同一であるのではないでしょうか。「場所的論理」(「自己は自己を否定するところにおいて真の自己である」)を焼きなおすと、「男性は男性を否定するところにおいて真の男性である」ということです。
戦場(いくさば)で”死”を交換するモノノフが雌雄を決する前になぜ、”詩”を交換し合ったのか。アプローチは非常に女性的だ。モノの中にこそ場所的論理が含まれていたのではあるまいか。だとするならば、物部氏と秦氏の関係とは何でしょうか。
これは金剛教に通底する思想とされているそうですが、金剛界は男性で胎蔵界は女性。つまりオトメンは金剛教をジでいってるということなのかもしれません。だからといって私がマスターというわけではありません。
オスカーワイルドも、これと同じようなことを「ウィンダミア卿夫人の扇」の中で記しています。
『人が私に同意するといつも、自分は間違っているに違いないと感じる。』
(O S C A R W I L D E , T H E F I R S T M O D E R N M A N)
これは単なる自己否定ではなく、自己表現を極限まで突き詰めた方という前提で捉える必要があると思います。つまり”私は私を否定することにおいて私である”ということですね。一言で言うと謙遜ですよね(笑)
話を元に戻しますと、まさにここがエフェソス公会議での論点なのですね。エロティシズムを最高の形に純化してしまったとしても生殖機能は削除してはいけないのです。なぜならエロティシズムは、女性と男性という2つの性と原始的生殖があってこそ成り立つんですから!
異端と烙印を押されても、どうしようもないですね。マリアが生殖するとかしないとかの本質的な話をされても、私の中に既に2つが共存(実存)しているのですから(笑)「 Everything's gonna be alright 」(全てがうまくいく)って言うしかないですよね。
それが実存主義のスタンスです。
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つまり、カカセオが失われた後、もう一度、カカ「水・風・星」を立てるという意味です。セオリツが蝦夷の守護神になっていた傍証になりますね。
kitunoの空さんによればカカセオはカウラザメ。カウラザメは常陸(ひたち)の守護神。鹿島は、海の中に輝く星(島)。日と星は常陸でつながる。月はどこに行ったのか?かぐや姫のように月は月に還ったのか?かぐや姫は竹から生まれた。竹はタケル、ヤマトタケル。
土佐弁で男性器の膨張をイコル(一五る)と言う。イカリは男性性。イカヅチ(雷)は怒る土。饒速日が天降った山はイカルガミネ。聖徳太子が営んだ宮は、イカルガの宮。聖徳太子は厩戸皇子でキリスト。キリストは、モーセの”はじめに言葉ありき”の男性性を継承したイカリ神。
聖徳太子が斑鳩宮(いかるがのみや)を造営したのは推古天皇9年(601年)。愛知県真福寺の開山は推古天皇2年(594年)。7年しか違わない。しかも真福寺のほうが早い。真福寺の縁起には、物部真福(もののべのまさち)が薬師如来を祀ったとされていますが、白鳳時代の仏頭から私に聞こえるのは「アミタバ・アミタバ」。調べて見ると、つまりは阿弥陀如来『ウィキペディア(Wikipedia)』でした。
昨年5月のクオリアの『水』ワークでオン・キーリク、11月に無量光寿、今年2月におおともわけ(応神天皇)、そして今月4月に真福寺。日の物部氏が祀っていたのは水神・アミタバ。確かに、物部村の巨大寺院跡は物部川の水源地にある。神通寺という。神通力(じんつうりき)は、やはり火と水の統合か?陣痛もホト(女性器)の破水から始まる。イザナミはカグヅチを産んだ時のホトの火傷で亡くなっている。カグヅチはイカグツチ、つまり男性性。破水すれば火を抑えられていたはず。破水させない何かの力が働いている。
破水を止めるのはダム。天竜川には一体、いくつのダムが作られたのか?暴れ天竜とは言っても、古来よりそれが天白・瀬織津姫の聖地となってきたはず。そこに水ではない何かが、、、
山から運ばれてくる豊穣な栄養分は下流域を潤す。個人主義に陥った方々は、山の栄養分をストップするダム建設に調印し、お金から運ばれてくる豊穣な栄養分を自分の下腹部に流す。構造は一緒だが、器が全然違う。
天竜川河口の中田島砂丘(なかたじまさきゅう)『ウィキペディア(Wikipedia)』は、ダムが砂の新陳代謝をストップするため毎年5m海岸線が後退している。ダムに税金を投入し、それによって生じた砂浜の後退にも莫大な税金を投入する。戦前の日本人はこれほど無能ではありませんでした。後藤新平『ウィキペディア(Wikipedia)』は、植民地統治においても生物学の原則に則った統治方法を貫いており、西洋の植民地支配とは全く違う、正鵠を得たインテリジェンスを持っていました。
真福寺の現在の本尊は東方浄土の薬師如来。つまりカグヅチで太陽神。イザナミの火傷をそのまま、放っておいて良いのだろうか。カグヅチを産んだ後、イザナミは神を産んでいないし、アミタバは破水していない。破水は洪水。三河一之宮・研鹿(とが)神社では、豊川の破水を祝う祭礼が開かれていた。それが豊川稲荷の前身。つまり、”エジプトはナイルの賜物”ということ。
ちなみに”ご神水”は少し前までは、”ごこうずい”と読まれていた。そう、洪水と同じ。それが”ごしんすい”に意図的に変えられたのは、洪水を神の水と認識されると困る人たちがいるのです。それが権力というものなのです。
廃仏派物部氏というのは後世の付会でしょう。真福寺のご神体は井戸水。これが目に良いということで、目は女であるから、女神・瀬織津姫。
11月に見た夢でも仏頭の眼を見て台帳に記入するという不思議な決まりごとがあった。
イザナミが左目を洗って生まれたのがアマテラス。そして右目を洗った時に生まれたのが、ツクヨミ。
高知のサメウラは靄が晴れるという意味。サメウラから山を下った真南の内湾はウラトワン、そのど真ん中には神功皇后伝説のまん丸の玉島。神功皇后が玉島で手にしたのは、玉手箱に入った白い煙ではなく白い玉そのもの。10倍界王拳のヒメ大神、玉島で元気玉(ニコニコ大百科)を手にする。
これを適用すると、カウラザメは星の靄が晴れるという意味。ウラサメはウラシマにもつながりますから、浦島太郎の煙は星とも関わっているんですね。玉手箱とウラサメは全く逆の意味。野菜と物部氏で書きました葛城氏の勝浦勝鶴(ケツァルコアトル『ウィキペディア(Wikipedia)』)は、そのカウラサメ(星と亀)を抑えたというメタファー。亀の甲羅は六芒星『ウィキペディア(Wikipedia)』。六芒星はダビデ、そして亀卜(きぼく)(斎宮歴史博物館)。ダビデは秦氏。秦は旗で鶴。鶴は勝鶴で葛城、、、鶴、亀、、蛇、、滑って転んで、、籠目、、、
宗次郎 の 「 すべては森の神にまかせて 」 です。
宗次朗さんは、かなり好きでアルバムも結構、持っています。権力が発生する以前の世界を具体的に体感させてくれる素晴らしい楽曲がたくさんあります。是非、聞かれてみてください。
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いつも、”何を書いているのか意味がわからない”と言われますが、私的にはどこかどうわからないのかがわからず(笑)できるだけわかりやすく書こうとするためにさらに長文になったりしますが、またその長文が、さらにわかりにくさを助長しているような気もしています。
できるだけ難しそうな単語は、ウィキへリンクしていきますので、どうぞお付き合いくださいませ。
さて、スピリチュアル・コミュニティですけれども、何回も言っているので「もういいよっ!飽きたよ~」みたいに思われるかもしれませんが、人間が生きていくうえで最も高い割合を占めているのが住宅費と食料費(お子さんがいる方はこれに教育費が加わります)です。
スピリチュアル・コミュニティは、上記固定費を助け合いで完全圧縮し、貨幣交換による経済活動を芸術方面に振り向け、精神が豊かな社会を構築するというものです。最近は、これはトマス・モアのユートピア論『ウィキペディア(Wikipedia)』と同じものなのかもしれないという懐疑が少し沸いたりしますが、その後の社会主義はその思想を背景に生まれていますので、決して無意味ではないと確信しています。
むしろ今必要なのは、マルクス・レーニン主義ではなく、初期社会主義なので、限りなくトマス・モアに近いと思います。いつか見た映画でイタリアの片田舎で若い女性がトマス・モアの著作を握り締めて社会一般の現状に関して男性と議論しまくるんですが、その萌えるシーンだけを覚えていて、完全に女神崇拝ですね(笑)
現在の日本社会は、特に住宅費の物価指数を操作することで国の経済規模を維持してきました。マイホームを持つことが夢になったのは、戦後の住宅政策の一環です。
その政策が、時代が変わった現在でも野放しになっていて、誰もそれを止めようとせず、各省庁の税金への寄生の言い訳になっています。安価な土地に国内の間伐材を使って住宅を提供すれば、簡単に国民の住宅費を下げることは可能です。それを政府がやらないのはなぜかというと極度の物価指数低下を招いてしまうからです。つまりデフレですね。
日本経済のど真ん中に住宅費という大黒柱が立っていて、それを引っこ抜くと全ての物の価値が一気に崩れ落ちます。首都圏の住宅新築着工数は、そういう意味で重要な指標なのです。これは日本だけでなくアメリカでもそうで、先の経済危機を引き起こした引き金は、住宅ローンバブルでした。
もっと詳しく述べますと、国家の経済規模を保つために国民にマイホームの夢を見せ続けているということです。しかし、このような量的経済政策は、少なくとも80年代には実効性を失っており、そのおかげで森は荒され
国土が荒廃してきました。
今、日本がとらなければならない道は、①国民の生活費(固定費)を下げ、生活を楽にし、②自然を破壊せずに、③今までと同じ経済規模を保つということです。
スピリチュアル・コミュニティは、上記3つの問いを一気に解決します。
①土地価格の安い山間部に移住し、放置された田や畑、森を生き返らせながら、少しの農作業をやります。収穫された作物をお互いにトレードしながら最終的には自給率100%まで近づけます。住宅も放置された古民家を再生します。これはもう実際にやっている人たちがいて、昔の欄間を現代風に再生して生活している人たちもいます。アーティスティックでなければ面白くありません。
この古民家再生に関わる人足ももちろん、コミュニティ内のトレード的な方法で実施されます。ですから前提として微妙にアーティスト集団であるということが必要になるかと思います。この問題は普通にクリアできると思います。今、最も芸術的な活動は田舎暮らしの中でしか表現できないと思います。
②上記の①の活動から本来の日本的建築や農業に対する理解が深まりますので、自然に古来の信仰というものにもスポットライトが当たってきます。それが今、私たちがやっている水を取り戻すリコール瀬織津姫の活動と重なってきます。それが市民活動とリンクして大きな流れになっていきます。
③そして、①②だけでは、国家の経済規模を押し下げてしまうだけなので、①②をファンダメンタルズ(基礎)としながら貨幣経済を戦後の資本主義レベルにまで引き上げないといけません。それをスピリチュアル活動を核に据えます。物を買って貨幣を払うのではなく、精神的豊かさを手に入れて貨幣を支払うのです。このサイクルができれば自然を無駄に破壊することもありません。
その分野で日本は世界をリードしていけば良いのです。
都市部では今までと同じような資本主義経済を温存し、山間部で社会主義経済を機能させ、社会主義思想で資本主義をコントロールしていくという本来の日本経済思想に戻します。
国民が資本主義社会・社会主義社会のいずれにも属することができ、いずれにおいても生活できる環境を作っていきます。
建築業者は、自然を守るための工事に従事させ、新たなグリーン・ニューディール思想の下で存続させます。これはスピリチュアル・コミュニティの範疇ではないですけれども、、、
非常に重要な位置を占める木材住宅業者、あるいは加工業者なんですけれども、現在、木材はバイオマスというエネルギー源のひとつになっており、森を守る活動とも直結しています。
私の地元でも、間伐に対して地域通貨を発行して、小規模林業者を守り、木質バイオマスでエネルギーを生産するという体制がかなりできていて、それとともに、地元の木材を使ってローカリティあふれる芸術的な木材住宅を創造するということも積極的に行われています。そのような民間主導のLOHAS的活動を市民活動の拠点に集約し、市民会議や市民メディアに成長させる実験も始まっています。
最終的には市民が行政に取って代わり、行政の財政支出を極限まで切り詰め、松下幸之助の無税国家という理想に一歩でも近づければと考えています。消費税を増税しなくても行政に関わるコストを市民が社会起業によって肩代わりできれば現在や近い将来の歳入規模でも充分採算が合います。(その他地域についても、このような活動には非常に興味があるので、ご連絡頂ければどんな形であれ参加させて頂きます)
これは上で述べたスピリチュアル・コミュニティの範疇を超える都市の資本主義社会と、山間部の社会主義社会をつなぐ活動と言えます。
この活動は、かなり社会起業的なものであり、将来、実現されるであろう州政府直属の事業となります。江戸時代も木材はそれぞれの地方政府で厳しく管理されていました。今は野放しです。しかも明治期の土地政策で強引に政府が申請のなかった神の森を勝手に国有林にしてしまったものですから、それ以降、森に対して責任を持つものがよくわからなくなっている地域もあります。
政府もそういう土地全てに役人を派遣するわけでもなく、公共事業で黙らせてナシ崩し的に権力の支配下に置いていくということをゲリラ戦のようにやってきているので、早めに道州制を立ち上げて、水と森を総合的に緻密に管理するということをしないといけないと思います。
あまり知られてないかもしれませんが、ヴェネツィア『ウィキペディア(Wikipedia)』では、かなり前から街を水害から守るために、水源の森の木を1年に何本切るかということまで綿密に計算されて実行されていて、日本のように水害が起こるから、やれダムを作れ、やれコンクリートで埋め固めろ、というようなインテリジェンスの低い政策は採用されていません。
コンクリートで埋め固めることに思想を持ってればまだ、納得できるのですが、ただ、ゼネコンの企業献金の力に政治家が屈しているだけですから、いかにこの国から純粋なポリティックスが失われているのかがわかります。一様に金の力に屈するだけの国会議員なら人間じゃなくて、おしゃべりリカちゃん人形でも立たせておけば良いのではないでしょうか。その方がかわいいし、お金もそんなにかからない。
日本では江戸時代までは非常に環境に優しい公共事業が行われていたのですが、明治期以降は、ほんとにとんでもない自然破壊工作が次々と実行され、現在でも続いています。
そんな中、熊野が政府の国有林伐採計画に抵抗し、世界遺産登録化に成功したのは現代史の中でも金字塔といっても良いでしょう。政府に任せておくと、地方の大切なものが悉く破壊されていきます。一体何が起こっているのか、曇りなき眼で見ていくことが必要でしょう。
とにかくそういう方向に進んでいかないといけないと思います。
経済用語ではあるのですが、ファンダメンタルズ(基礎)という語を是非、知って頂きたいと思っています。伊勢神宮の式年遷宮や諏訪大社の御柱祭などは、ファンダメンタルズを立て直す作業です。
ファンダメンタルズは、時と共に根腐れしてきます。現在の日本経済は明らかに根腐れしており、式年遷宮の時期を過ぎています。
ファンダメンタルズが根腐れしていますと、いくら外見を取り繕っても、破滅に向かうだけです。
逆に、ファンダメンタルズがしっかりと建ちますと、後は放っておいても内側の生命力、それぞれの鼓動で自己再生を始めるのです。これは神道の最も深い真理のひとつと言っても良いと思います。
これは人間にもあてはまることで、地域社会の中で「他者を信頼すること」、「自分を表現すること」、「自分が如何なる時でも受け入れてもらっていること」などの感覚が育まれていなければ、内側のファンダメンタルズが建っていないということになります。これを可能にしようと言うのが、スピリチュアルで言うところのセンタリングであり、日本語でいうところの心御柱なんですね。
だからこそスピリチュアルという価値観のもとで、それを行わないといけないんですね。
昔は、氏神の祭祀やお祭りなどで地域社会に受け入れられる機会が多くあったのですが、最近の個人主義都市文化の下では、ほとんどそのような愛の受け渡しが行われていません。だから、そういう方たちがスピリチュアルに入ってくると、”私は、神やマスターの代弁者である”というふうになってくるのです。
まず捨て去るべきは、個人主義文化。スピリチュアルは、それを捨て去った向こう側にしかありません。愛とは自己満足のものではありませんし。相互が尊重し同じ星を見ている感覚が共有された時に初めて愛が生まれるんじゃないでしょうか。西洋的に言えば、アヴェ・マリス・ステラ『ウィキペディア(Wikipedia)』でしょうし、日本的に言えば、カカさま・おほしさま でしょう。
これは男女間でもそうですし、地域社会においてもそうではないかと思います。人間はひとりで勝手に生きているわけではありません。
愛の実現には自分と他者の間に同じ方向へ向かって進むという指標が必要だということです。ベガ(おりひめ)+アルタイル(ひこぼし)=デネブ(白鳥)という大三角形のような構図なので、琴座的感覚と言えばそうでしょう。1万3千年前は、ベガ(女神)が北極星であり、その星を中心にあらゆる星が回っていたので、マゾヒスト女神崇拝者が現れたのは、おそらくその巨石時代でしょう。私もその時代の感覚を持って語ってる時が多いです。
琴引き岩は、寿なんですよ!コトブキには、①琴を弾いて音を鳴らすという意味と、②めでたいという意味と、③言葉を発するという意味があるんです。③は後世、キリスト教の根本原理になり、①はヒンドゥー教の根本原理になりました。そして②が天の川信仰ですね。全て琴座の時代の文化です。
ゴトゴト取り戻していきたいですね。
「 ああっ女神さまっ 」 です。
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はちきんは、男勝りの女性というか男を超越した女性という表現のほうがいいかもしれません。酒は男よりも強いですし、時に暴力的ですし、白黒をはっきりつけたがり、めちゃ論理的(男性的な論理思考ではなく、愛を起点とした論理思考が非常に強い)です。愛を欠いた行動をする人を批判する文法が非常に発達していて、口やかましいけど正論で哲学的だから反論できないという特徴を持っています。数の上でも”はちきん”=20、”いごっそう”=16ですから、男性が負けています。
そして20はハタチですから、ヤハタは8×20=160ということになります。つまりヤハタは”いごっそう”の10倍ですね。つまり、10倍界王拳(ニコニコ大百科)の使い手がヤハタ(八幡)神社のど真ん中に祀られているヒメ大神『ウィキペディア(Wikipedia)』ということになるかと思います。
界王拳の使い手は、西遊記的に言えば、孫悟空ではなく三蔵法師という女性だったということです。日本のテレビドラマの西遊記では夏目雅子さんが演じられていましたね。おもしろかったですよね。
なのでドラゴンボールの中で地球を救っているのは、実は悟空ではなくて、奥さんのチチという図式も成立可能かと思います。鳥山明さんもこの部分はうまく描いてますので、注意深く見るとおもしろいです。悟空は全世界の誰にも負けないんですが、チチだけには負けてしまいます。それが、”力への意志”を超越する”はちきんの愛の哲学”なんですね。
西遊記の中で孫悟空が頭にはめていて、悪いことをすると三蔵法師に念力で締め付けられるのはキンコ(履物を脱げ)と呼ぶそうです。”はちきんの子”という解釈を与えることもできます。
孫悟空を古代史の中で捉えると胎中天皇、つまり応神天皇のことではないかと思います。太陽の巫女の時代が終わって、頭にキンコをはめながら日本を統治していくという決意をあらわした素晴らしい名前です。
秦氏が大挙として渡来してきたのも応神天皇の時代と言われています。今メッセージをもらってる真福寺とも深く関わっていると思います。
古代日本人は、三蔵法師のその力をヒメ大神として祀っていました。神功皇后ですね。それが日本一多い八幡神社の発祥でしょう。日本の根幹に関わるここでもトランスジェンダー的な要素が出てきます。
ちなみに日曜日のドラゴンボール再放送では、来週、孫悟空が10倍界王拳を使っていたフリーザが消滅してしまいます(笑)
いごっそうは、そういう”はちきん”の下で育てられますので、オトメンができやすいということかもしれません。泣き虫のオトメン龍馬を育てたのは、はちきんの乙女姉やんです。
そうは言っても、”はちきん”も女性であるので政治方面にはあまり才能を発揮せず、革命期には、その意志を継ぐオトメンが歴史の表舞台に出てくるということが日本史の中で延々と繰り返されているんですね。ドラゴンボールもオトメンの物語でしょう。
秦氏もやはり、強い男性性を持った女性(女神)とオトメンの組み合わせだった可能性が高いということですね。
女性の社会進出がジェンダーフリーなどという概念を伴って語られますが、私の地元で社会を作っているのは本質的には女性なので、そういうのは、なんだかよくわかりません。
前提が間違っているのではないかと思います。社会とは政治経済システムや企業社会ではなく、地域社会のことでしょう。前者は男性社会なので、日本における女性の社会進出とは男性社会への進出なのでしょう。
女性性が弱まっているとすれば男性社会と同等のレベルまで女性社会を育まなければならず、それがスピリチュアル社会なのです。女性性を押し殺して働かなければならないということは悲しいことです。男性社会を変えようとするのではなく、女性社会を創造すれば良いのです。
女性が社会(ここで言う社会とは政治経済システムではなくて社会の雰囲気)を作って男性がそれを拝むというのが本来のあるべき姿でしょう。これは女神崇拝マゾヒストの谷崎潤一郎『ウィキペディア(Wikipedia)』も目指していた方向性です。
耽美主義については、日を改めて書きたいと思っています。
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