2010/06/19 [01:11] (Sat)
ガブリエルがキター^^;。旧暦で昨日は5月6日、つまり率川神社でゆりの花が摘まれるのが、5月5日の※端午の節句※ということです。昨日、レポート(DragonAnasta)を少し書きました。
※干支※における午(うま)は、7番目を表し、つまり6ヶ月が終わって新たなスタートの月ということ。それはククリの時でもあります。その新たな始まりを百合(ガブリエル)が祝福するということ。古代の暦では始まりの子(ね)の月が12月です。ちょっと抜き出して書いておきますね。旧暦は立春が正月に設定されているので古代の暦とも少し違うと思います。
古代 旧暦 新暦
子=11月=12月(冬至)
丑=12月=1月
寅=1月=2月(旧正月)
卯=2月=3月
辰=3月=4月
己=4月=5月
午=5月=6月(夏至)
未=6月=7月
申=7月=8月
酉=8月=9月
戌=9月=10月
亥=10月=11月
暦の問題は色々と複雑でありますけれども、要するに古い時代の暦は冬至が始まりをあらわし(根の国)、そこから半年経過した夏至が新たなる始まりをあらわすということです。
冬至から太陽が高くなり始め夏至に頂点に達します。この太陽の復活を祝うのが西洋ではクリスマスであり、日本では柚子風呂になります。起源は太陽神復活なので同じになります。
では次の半年が始まる7番目の月には何を祝うのでしょうか?
そうです。月になります。太陽が力を失っていくのは、月が力を持ち始めるのです。そういうふうに古代人は自然現象を捉えてきました。ギリシャ神話にはそういう思考回路が残されています。アポロンとアルテミス、オリオンの物語は伊勢湾に凝縮されています。
つまり太陽神復活が冬至ならば、月神復活が夏至なのです。
まとめてみますと
古代⇒夏至が7番目の月で大祓えの瀬織津姫の月
↓
立春を正月にした旧暦⇒7番目の月が夏だから夏越の大祓えとなった
↓
新暦⇒冬至直後を1月としたから古代の暦に近くなった。(夏至近くの大祓え)
率川神社の祭りは三枝(サイグサ)祭り。つまり、サイは西であり、賽の河原のサイ。つまり阿弥陀如来の西方浄土であり、※ティル・ナ・ノーグ(Tír na n-Óg)※。
そう、私たちの生と死をわけるのは、西。太陽という”生”が沈んだ後、月という”あの世”が始まる。だからこそお盆には、亡くなった人たちが帰って来る。
出雲の祖神・※日御碕神社※の日沈みの宮にはアマテラスが祀られている。しかし本来は、ここには月の女神が祀られていなければならない。また場所も違う。太陽神が東の岬に祀られていたことを考えれば、本当の出雲は西に向いた岬、つまりは四国の佐田岬か愛知の渥美半島しかない。
佐田岬も色々と痕跡がありますが、日本全体を考えたとき、また神島・二見浦を考えれば渥美半島の先が真の日沈みの宮であり、因幡の素兎の地であり出雲。出雲は伊豆が喪された(隠された)ものであるので、イズノメが出ていたのは神島。
そこを兎が渡る寸法。
今年は奇しくも3回の月食・トリプル月食年。1月1日に月食して今月6月26日にまた部分月食。6月21日には夏至。そして3回目の月食は12月21日の皆既月食。そして次の日12月22日は冬至。何かおわかりでしょうか?
そう太陽と月が非常に仲がいいということ。そして今年はアイアイガサの年。3ヶ月でやっと答えが出ました。太陽と月のアイアイガサ。東が太陽(いざなぎ)、西が月(いざなみ)。トウゴク(東国)とサイゴク(西国)。東光寺と西光寺。東方浄土の薬師如来と西方浄土の阿弥陀如来。
一(ヒ)は日、三(ミ)は水。では二(フ)は何か?それはモノノフのフ。物部村(ものべそん)いざなぎ流神事は、日月祭。モノがふたつ。つまり日と月。男性性と女性性を操るのが物部氏だったということ。この信仰は火水子にもつながる。
月はサイ。だからサイグサ祭り(DragonAnasta)。そして今、西宮(サイグウ)を拠点に活動しています。(厳密にはもうちょっと西より)
百合は、サイ・サユリ・ユスルが語源であるという。そして六甲の古代名はユスルハダケ。淡路島の最高峰はユスルハ山。そして率川神社に勧請されたのは阿波神社。これらが何を意味するかは容易に想像がつく。
狭井神社は本来、西の地に祀られていなければならないのになぜ、東の三輪山にあるのか?春日大社は辻褄が合う。太陽神は東向きの地に祀られなければならないのになぜ日沈みの宮に祀られているのか?
これに対する解は限られている。
ある時期に西のものが東に、東のものが西に付け替えられたということ。これはレポート(DragonAnasta)にも書きましたが、土佐神社の川の流れ改変と同じ時期に行われているのです。
そしてそれが瀬織津姫と関わっていることも。さらに、月神が徹底的に隠されたということも。
それは日本神話のツクヨミの秘匿性からも伺える。
”シナネ”を分解すると、”シ”は風だから※聖霊※、”ナ”は七(北斗七星)、”ネ”は子(干支)だから始まり。”はじめに言葉ありき”だからロゴス。ということは、”ナ”が父で三位一体。確かに石鎚山も父母子の三位一体信仰ですし、土佐神社境内の三社は大国主・事代主・西御前の三位一体。波多国からは七星剣も出ている。
土佐神社境内社 三位一体 土佐神社の祭礼
西御前 ⇒聖霊(母) :シ
大国主 ⇒父 :ナ
事代主 ⇒ロゴス(子) :ネ
全て辻褄が合う。戦国期の長宗我部は秦の始皇帝の末裔を公言していた。秦は中国読みでローマ。
シナネの後に祀られたのが一言主。これはロゴスである”ネ”の部分だけが抜き取られたのです。
そして土佐神社の元宮に設定されているのが鳴無(オトナシ)神社。子の国から”はじめに言葉ありき”を発せないようにするための封印。トサはゲール語で”はじまり”を表す。土佐に哲学者が多いのはこのためか。
率川神社の父・母・子の三位一体は石鎚山の信仰と同じ。平安末期に父母子三位一体修験馬場が急速に衰退した痕跡がある。その石鎚山を水源とした川が風土記に記載された三輪川。それが辰己の方角へ蛇行し最終的に土佐神社前の浦戸湾に注ぐ。その河口脇に土佐神社と信仰を2分する日本初の天満宮・潮江天満宮。菅原高視はそこに逗留した。三輪・大神・三体妙見から流れ出る神の川は辰己(南東)へ向かってなくてはならない。それは冬至の日の出の方角だし、ハハキ信仰の方角だから。
そして、さらなる謎を誘うのが佐田岬(愛媛県)・佐多岬(鹿児島県)・蹉跎岬(高知県「現足摺岬」)。全て西側の海に面している。おそらく何か関係がある。サタはサルタヒコともいうが女神の可能性も持っているということか。そういえば、先日のミカエルの合同遠隔の時にこの問題が出た。
大阪府枚方市にある※蹉跎神社(さだじんじゃ)※の蹉跎参道は真っ直ぐ西に伸びている。明らかに西方浄土の信仰。ここは前に逢坂の逢瀬で書いた淀川・天の川信仰の東側の入り口です。西(西宮「ベガ」)から織姫一行が淀川「デネブ・白鳥座」を渡って蹉跎神社に入っていく。東宮は磐船神社のニギハヤヒ「アルタイル」。その2人が結ばれ天が満つる(美鶴)。それを見守る位置にあるのが阿武山。だからそこから聖徳太子(藤原鎌足)の遺骸が出てくる。
それが天智朝まで実際にあった信仰。この天の川信仰は少なくともベガが北極星に位置していた1万3千年前にまで遡ることができる。だからこそ天満宮。このような美しい信仰を封じ込め、西を東に東を西に操作し、嘘の歴史書を作ったのが今の歴史教科書にまで引き継がれている。
実際に聖地に足を運び、つぶさに見ればこのようなことがわかってくる。だからこそ明治政府は修験道を禁止したのです。
私たちは今、本当の日本神話を取り戻さなければならない時期に来ている。
酒に酔わせて熊襲を討ち取ったなどと自慢げに書く日本書紀と、織姫と彦星の逢瀬を皆で祝っていた信仰と、どちらが日本人らしい美しいあり方なのか。現代に生きる私たちがどちらを選択するかによって引き続き争いの歴史になるのか、それとも失われた神話の歴史に回帰するのかが決められる。
ということで、あまり難しくなりすぎてもいけないので、ユリつながりで
菅原紗由理 さん の 「 素直になれなくて 」 です。
いい歌声です^^特にイントロが最高!
※印で囲んだリンクは全て『ウィキペディア(Wikipedia)』からの引用
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※干支※における午(うま)は、7番目を表し、つまり6ヶ月が終わって新たなスタートの月ということ。それはククリの時でもあります。その新たな始まりを百合(ガブリエル)が祝福するということ。古代の暦では始まりの子(ね)の月が12月です。ちょっと抜き出して書いておきますね。旧暦は立春が正月に設定されているので古代の暦とも少し違うと思います。
古代 旧暦 新暦
子=11月=12月(冬至)
丑=12月=1月
寅=1月=2月(旧正月)
卯=2月=3月
辰=3月=4月
己=4月=5月
午=5月=6月(夏至)
未=6月=7月
申=7月=8月
酉=8月=9月
戌=9月=10月
亥=10月=11月
暦の問題は色々と複雑でありますけれども、要するに古い時代の暦は冬至が始まりをあらわし(根の国)、そこから半年経過した夏至が新たなる始まりをあらわすということです。
冬至から太陽が高くなり始め夏至に頂点に達します。この太陽の復活を祝うのが西洋ではクリスマスであり、日本では柚子風呂になります。起源は太陽神復活なので同じになります。
では次の半年が始まる7番目の月には何を祝うのでしょうか?
そうです。月になります。太陽が力を失っていくのは、月が力を持ち始めるのです。そういうふうに古代人は自然現象を捉えてきました。ギリシャ神話にはそういう思考回路が残されています。アポロンとアルテミス、オリオンの物語は伊勢湾に凝縮されています。
つまり太陽神復活が冬至ならば、月神復活が夏至なのです。
まとめてみますと
古代⇒夏至が7番目の月で大祓えの瀬織津姫の月
↓
立春を正月にした旧暦⇒7番目の月が夏だから夏越の大祓えとなった
↓
新暦⇒冬至直後を1月としたから古代の暦に近くなった。(夏至近くの大祓え)
率川神社の祭りは三枝(サイグサ)祭り。つまり、サイは西であり、賽の河原のサイ。つまり阿弥陀如来の西方浄土であり、※ティル・ナ・ノーグ(Tír na n-Óg)※。
そう、私たちの生と死をわけるのは、西。太陽という”生”が沈んだ後、月という”あの世”が始まる。だからこそお盆には、亡くなった人たちが帰って来る。
出雲の祖神・※日御碕神社※の日沈みの宮にはアマテラスが祀られている。しかし本来は、ここには月の女神が祀られていなければならない。また場所も違う。太陽神が東の岬に祀られていたことを考えれば、本当の出雲は西に向いた岬、つまりは四国の佐田岬か愛知の渥美半島しかない。
佐田岬も色々と痕跡がありますが、日本全体を考えたとき、また神島・二見浦を考えれば渥美半島の先が真の日沈みの宮であり、因幡の素兎の地であり出雲。出雲は伊豆が喪された(隠された)ものであるので、イズノメが出ていたのは神島。
そこを兎が渡る寸法。
今年は奇しくも3回の月食・トリプル月食年。1月1日に月食して今月6月26日にまた部分月食。6月21日には夏至。そして3回目の月食は12月21日の皆既月食。そして次の日12月22日は冬至。何かおわかりでしょうか?
そう太陽と月が非常に仲がいいということ。そして今年はアイアイガサの年。3ヶ月でやっと答えが出ました。太陽と月のアイアイガサ。東が太陽(いざなぎ)、西が月(いざなみ)。トウゴク(東国)とサイゴク(西国)。東光寺と西光寺。東方浄土の薬師如来と西方浄土の阿弥陀如来。
一(ヒ)は日、三(ミ)は水。では二(フ)は何か?それはモノノフのフ。物部村(ものべそん)いざなぎ流神事は、日月祭。モノがふたつ。つまり日と月。男性性と女性性を操るのが物部氏だったということ。この信仰は火水子にもつながる。
月はサイ。だからサイグサ祭り(DragonAnasta)。そして今、西宮(サイグウ)を拠点に活動しています。(厳密にはもうちょっと西より)
百合は、サイ・サユリ・ユスルが語源であるという。そして六甲の古代名はユスルハダケ。淡路島の最高峰はユスルハ山。そして率川神社に勧請されたのは阿波神社。これらが何を意味するかは容易に想像がつく。
狭井神社は本来、西の地に祀られていなければならないのになぜ、東の三輪山にあるのか?春日大社は辻褄が合う。太陽神は東向きの地に祀られなければならないのになぜ日沈みの宮に祀られているのか?
これに対する解は限られている。
ある時期に西のものが東に、東のものが西に付け替えられたということ。これはレポート(DragonAnasta)にも書きましたが、土佐神社の川の流れ改変と同じ時期に行われているのです。
そしてそれが瀬織津姫と関わっていることも。さらに、月神が徹底的に隠されたということも。
それは日本神話のツクヨミの秘匿性からも伺える。
”シナネ”を分解すると、”シ”は風だから※聖霊※、”ナ”は七(北斗七星)、”ネ”は子(干支)だから始まり。”はじめに言葉ありき”だからロゴス。ということは、”ナ”が父で三位一体。確かに石鎚山も父母子の三位一体信仰ですし、土佐神社境内の三社は大国主・事代主・西御前の三位一体。波多国からは七星剣も出ている。
土佐神社境内社 三位一体 土佐神社の祭礼
西御前 ⇒聖霊(母) :シ
大国主 ⇒父 :ナ
事代主 ⇒ロゴス(子) :ネ
全て辻褄が合う。戦国期の長宗我部は秦の始皇帝の末裔を公言していた。秦は中国読みでローマ。
シナネの後に祀られたのが一言主。これはロゴスである”ネ”の部分だけが抜き取られたのです。
そして土佐神社の元宮に設定されているのが鳴無(オトナシ)神社。子の国から”はじめに言葉ありき”を発せないようにするための封印。トサはゲール語で”はじまり”を表す。土佐に哲学者が多いのはこのためか。
率川神社の父・母・子の三位一体は石鎚山の信仰と同じ。平安末期に父母子三位一体修験馬場が急速に衰退した痕跡がある。その石鎚山を水源とした川が風土記に記載された三輪川。それが辰己の方角へ蛇行し最終的に土佐神社前の浦戸湾に注ぐ。その河口脇に土佐神社と信仰を2分する日本初の天満宮・潮江天満宮。菅原高視はそこに逗留した。三輪・大神・三体妙見から流れ出る神の川は辰己(南東)へ向かってなくてはならない。それは冬至の日の出の方角だし、ハハキ信仰の方角だから。
そして、さらなる謎を誘うのが佐田岬(愛媛県)・佐多岬(鹿児島県)・蹉跎岬(高知県「現足摺岬」)。全て西側の海に面している。おそらく何か関係がある。サタはサルタヒコともいうが女神の可能性も持っているということか。そういえば、先日のミカエルの合同遠隔の時にこの問題が出た。
大阪府枚方市にある※蹉跎神社(さだじんじゃ)※の蹉跎参道は真っ直ぐ西に伸びている。明らかに西方浄土の信仰。ここは前に逢坂の逢瀬で書いた淀川・天の川信仰の東側の入り口です。西(西宮「ベガ」)から織姫一行が淀川「デネブ・白鳥座」を渡って蹉跎神社に入っていく。東宮は磐船神社のニギハヤヒ「アルタイル」。その2人が結ばれ天が満つる(美鶴)。それを見守る位置にあるのが阿武山。だからそこから聖徳太子(藤原鎌足)の遺骸が出てくる。
それが天智朝まで実際にあった信仰。この天の川信仰は少なくともベガが北極星に位置していた1万3千年前にまで遡ることができる。だからこそ天満宮。このような美しい信仰を封じ込め、西を東に東を西に操作し、嘘の歴史書を作ったのが今の歴史教科書にまで引き継がれている。
実際に聖地に足を運び、つぶさに見ればこのようなことがわかってくる。だからこそ明治政府は修験道を禁止したのです。
私たちは今、本当の日本神話を取り戻さなければならない時期に来ている。
酒に酔わせて熊襲を討ち取ったなどと自慢げに書く日本書紀と、織姫と彦星の逢瀬を皆で祝っていた信仰と、どちらが日本人らしい美しいあり方なのか。現代に生きる私たちがどちらを選択するかによって引き続き争いの歴史になるのか、それとも失われた神話の歴史に回帰するのかが決められる。
ということで、あまり難しくなりすぎてもいけないので、ユリつながりで
菅原紗由理 さん の 「 素直になれなくて 」 です。
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2010/06/17 [00:02] (Thu)
お返事をお待たせしている方、商品のご到着をお待ち頂いている方、申し訳ありません。
随処作主 立処皆真にも少し書きましたが、基本的に誰かに理解されようとするならば、まず自らが進んで誰かを積極的に理解しようとしなければなりません。
人間の心は、皆同じですから自分だけが受け入れられ、自分だけが認められるような環境はあり得ません。
親の愛でさえ、子供の感謝がなければ長続きしません。親から子への愛は永遠ですが、親は子に潜在的に代償を求めています。成人した立派な姿、良い人と結婚して幸せに暮らして欲しいという願望、孫を抱きたいという願望。これらは愛ではなく代償です。
無償の愛というのは幻想であり、基本的に愛というのは循環になります。やってもらったことには感謝する。そしてまた有難く受け取る。このサイクルを古代は、拝み(男神)・恵み(女神)と呼んだのです。
子供が親にしっかりと感謝し、親の代償を求める愛から逃れた時、子は初めて自立します。子が自分の意志で神風特攻隊に入りたいと言ったらどうでしょうか?代償を求めている親は反対するでしょう。なぜならずっと生存してほしいという代償を求めているからです。それは無償の愛ではなく代償的な愛です。
代償的な愛を求め求められたくなければ感謝を返すことが必要なのです。
現代人は、恵み(女神)だけを受け取り、拝む(男神)ことをすっかり忘れています。先祖を拝むこと、地域社会を拝むこと、家族を拝むこと。
目の前に存在するものを当たり前と思ってしまったら、お終いです。
子供時代に家庭にトラブルが生じていた方は、理想の家庭を築こうとし、子供時代に社会からたくさんの愛を受け取っていた人は社会のために生きようとします。両者は明らかに生き方そのものが違います。
しかし、違いは当たり前であり、どちらが正しいということもありません。大事なことはお互いがお互いを理解しようとする意志を持つことなのです。それが愛というものになります。
その愛は、自分とは違う人たちを受け入れようとします。それが寛容さであり、マリアなのです。
ですので、自分の愛の考えを押し付ける行為は、逆に愛を奪う行為です。光を語りながら闇に包まれているエネルギーはこの原理原則を持っていて、素晴らしい真理が記載された聖書を携え信者に教義を強要する宗教は、むしろ愛がないと言えるのです。
人間が誰かを愛するということは、その誰かに自由を与えるということであり、自分の愛の哲学や理想の家族像を押し付けることではありません。
自分が一人でいる時よりも、力を得、自由を獲得できている場合は、それは愛してくれる誰かが側にいるわけであり、その構造にまず気付かなければ、感謝などとても無理ではないかと思います。
愛されることが当たり前だと思っているうちは感謝など到底できないということなのです。
親が子供を愛することも、誰かが自分を愛してくれることも当たり前だとは思ってはいけません。それは特別なことであり、神聖なことなのです。だからこそ私たちは、親に感謝し、地域社会に感謝し、先祖に感謝するのです。
それが政(マツリゴト)であり、統べる(すべる)ということなのです。
こういうことを子供時代に認識していないと大人になってから取り戻すのには時間がかかります。それは悪いわけでも劣っているわけでもありませんが、その事実を真摯に受け止め改善していく必要があります。
統べる(すべる)ということは、支配することではなく、愛することです。
そして、愛することは与えること。お互いが愛し与えていれば家族も地域社会も国も世界もうまくまわります。
しかし、それができていない場合があります。なぜなら、自分の理想や妄想に振り回され、目の前の愛されているという現実を見ることができていないからです。
目の前の現実をつぶさに見たならば、私たち人間は生まれた瞬間に既に愛され、その後も様々なものや人に愛され続けます。ゆえに後はもう感謝することしかやるべきことは残っていないのです。
自分のことを他者に認めさせようとしたり、認められようと頑張る必要はないのです。そのネガティブパターンを変えるためには、目の前の愛に気付くことこそが重要なのです。
自分のことを他者に認めさせようとする行為は、他者が存在しなければ成立しないものなので、それは受け身(依存)のパターンになります。
だからこそ、それを変えるために主体性という真理が必要であり、経典などは不要なのです。これが禅のひとつの宗教的スタンスです。経典を与えるのではなく愛の真理を与えるのが真の宗教。
人間は誰しも愛されたいと思っています。
しかし、それは愛されていることに気付かないことに原因があります。それに気付かなければ人を変えても環境を変えても満たされません。
自分の魂が求める生き方に制限が与えられている場合は、『支配』であり
自分の魂が求める生き方に自由が与えられている場合は、『愛』なのです。
誰かの生き方を積極的に認めようとする行為は、自分の生き方が積極的に認められるというギフトを呼び込みます。
逆に自分の子供時代に果たせなかった夢に誰かを従わせようとすれば、自分も誰かの夢に従わなければならなくなります。
結局は、自分の蒔いた種であり、自分が収穫するのは、その種の実でしかありません。自然と触れていなければ、このような単純な真理さえ認識できなくなってしまいます。
愛とは、積極的に他者の生き方を認めていく行為であり、理解とは、理解されるというよりも積極的に理解しようとする行為であります。
無償の愛という語を出す方は、ほとんどの方が与えられることだけを前提にしています。そして愛されなくなった時、他者を責めます。それは受け身なのです。逆に愛を与えている方は無償の愛などという語は語りません。なぜなら愛は循環するものであり、give and take であり、与え与えられるものであるという真理を知っているからです。
受け身では人生がうまくいきません。自らが進んで他者の生き方を理解しようとし、他者の生き方を補助し、他者の生き方に寄り添う。この行為の結果、愛があるのです。愛が与えられるものとすれば、それはなんらかの結果によって与えられるものでしょう。
愛することもせず、自由を与えることもせず、理解しようともしていないのに、自分だけは認められようとする。このようなネガティブパターンには陥らないようにしたいものです。
愛されることは当たり前のことではありません。自分の家族、社会、先祖により一層、感謝してみましょう。そうすれば本当の意味でのマツリゴトが降りてきます。
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随処作主 立処皆真にも少し書きましたが、基本的に誰かに理解されようとするならば、まず自らが進んで誰かを積極的に理解しようとしなければなりません。
人間の心は、皆同じですから自分だけが受け入れられ、自分だけが認められるような環境はあり得ません。
親の愛でさえ、子供の感謝がなければ長続きしません。親から子への愛は永遠ですが、親は子に潜在的に代償を求めています。成人した立派な姿、良い人と結婚して幸せに暮らして欲しいという願望、孫を抱きたいという願望。これらは愛ではなく代償です。
無償の愛というのは幻想であり、基本的に愛というのは循環になります。やってもらったことには感謝する。そしてまた有難く受け取る。このサイクルを古代は、拝み(男神)・恵み(女神)と呼んだのです。
子供が親にしっかりと感謝し、親の代償を求める愛から逃れた時、子は初めて自立します。子が自分の意志で神風特攻隊に入りたいと言ったらどうでしょうか?代償を求めている親は反対するでしょう。なぜならずっと生存してほしいという代償を求めているからです。それは無償の愛ではなく代償的な愛です。
代償的な愛を求め求められたくなければ感謝を返すことが必要なのです。
現代人は、恵み(女神)だけを受け取り、拝む(男神)ことをすっかり忘れています。先祖を拝むこと、地域社会を拝むこと、家族を拝むこと。
目の前に存在するものを当たり前と思ってしまったら、お終いです。
子供時代に家庭にトラブルが生じていた方は、理想の家庭を築こうとし、子供時代に社会からたくさんの愛を受け取っていた人は社会のために生きようとします。両者は明らかに生き方そのものが違います。
しかし、違いは当たり前であり、どちらが正しいということもありません。大事なことはお互いがお互いを理解しようとする意志を持つことなのです。それが愛というものになります。
その愛は、自分とは違う人たちを受け入れようとします。それが寛容さであり、マリアなのです。
ですので、自分の愛の考えを押し付ける行為は、逆に愛を奪う行為です。光を語りながら闇に包まれているエネルギーはこの原理原則を持っていて、素晴らしい真理が記載された聖書を携え信者に教義を強要する宗教は、むしろ愛がないと言えるのです。
人間が誰かを愛するということは、その誰かに自由を与えるということであり、自分の愛の哲学や理想の家族像を押し付けることではありません。
自分が一人でいる時よりも、力を得、自由を獲得できている場合は、それは愛してくれる誰かが側にいるわけであり、その構造にまず気付かなければ、感謝などとても無理ではないかと思います。
愛されることが当たり前だと思っているうちは感謝など到底できないということなのです。
親が子供を愛することも、誰かが自分を愛してくれることも当たり前だとは思ってはいけません。それは特別なことであり、神聖なことなのです。だからこそ私たちは、親に感謝し、地域社会に感謝し、先祖に感謝するのです。
それが政(マツリゴト)であり、統べる(すべる)ということなのです。
こういうことを子供時代に認識していないと大人になってから取り戻すのには時間がかかります。それは悪いわけでも劣っているわけでもありませんが、その事実を真摯に受け止め改善していく必要があります。
統べる(すべる)ということは、支配することではなく、愛することです。
そして、愛することは与えること。お互いが愛し与えていれば家族も地域社会も国も世界もうまくまわります。
しかし、それができていない場合があります。なぜなら、自分の理想や妄想に振り回され、目の前の愛されているという現実を見ることができていないからです。
目の前の現実をつぶさに見たならば、私たち人間は生まれた瞬間に既に愛され、その後も様々なものや人に愛され続けます。ゆえに後はもう感謝することしかやるべきことは残っていないのです。
自分のことを他者に認めさせようとしたり、認められようと頑張る必要はないのです。そのネガティブパターンを変えるためには、目の前の愛に気付くことこそが重要なのです。
自分のことを他者に認めさせようとする行為は、他者が存在しなければ成立しないものなので、それは受け身(依存)のパターンになります。
だからこそ、それを変えるために主体性という真理が必要であり、経典などは不要なのです。これが禅のひとつの宗教的スタンスです。経典を与えるのではなく愛の真理を与えるのが真の宗教。
人間は誰しも愛されたいと思っています。
しかし、それは愛されていることに気付かないことに原因があります。それに気付かなければ人を変えても環境を変えても満たされません。
自分の魂が求める生き方に制限が与えられている場合は、『支配』であり
自分の魂が求める生き方に自由が与えられている場合は、『愛』なのです。
誰かの生き方を積極的に認めようとする行為は、自分の生き方が積極的に認められるというギフトを呼び込みます。
逆に自分の子供時代に果たせなかった夢に誰かを従わせようとすれば、自分も誰かの夢に従わなければならなくなります。
結局は、自分の蒔いた種であり、自分が収穫するのは、その種の実でしかありません。自然と触れていなければ、このような単純な真理さえ認識できなくなってしまいます。
愛とは、積極的に他者の生き方を認めていく行為であり、理解とは、理解されるというよりも積極的に理解しようとする行為であります。
無償の愛という語を出す方は、ほとんどの方が与えられることだけを前提にしています。そして愛されなくなった時、他者を責めます。それは受け身なのです。逆に愛を与えている方は無償の愛などという語は語りません。なぜなら愛は循環するものであり、give and take であり、与え与えられるものであるという真理を知っているからです。
受け身では人生がうまくいきません。自らが進んで他者の生き方を理解しようとし、他者の生き方を補助し、他者の生き方に寄り添う。この行為の結果、愛があるのです。愛が与えられるものとすれば、それはなんらかの結果によって与えられるものでしょう。
愛することもせず、自由を与えることもせず、理解しようともしていないのに、自分だけは認められようとする。このようなネガティブパターンには陥らないようにしたいものです。
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2010/06/14 [14:56] (Mon)
随処作主 立処皆真でも書きましたが、怒りというのは男性性のものであり、それは光と闇の両方の効能を持っています(光の効能→剣を建て自分の道を進む、闇の効能→他の存在を剣で支配しようとする)。
怒り(男性性「イカグ」)の光の側面をより伸ばしていくためには、水(女性性)の力が必要なんですけれども、今、水(瀬織津姫)の力が非常に弱まっています。
社会に怒りが充満することと、水が穢れていくことは密接不可分な関係にあって、水が穢れていくことによって女性性が衰退するだけででなく、男性性の闇の側面が強くなってきます。
滝の周辺にはマイナスイオンがあって、そのイオンによって人は癒されると言われていますが、エレメント的には、『水』によって『火』が抑えられるということになります。
なので清浄な水がある地域では、社会の怒りはより少ないといっていいでしょう。
だからこそ私たち日本人は古来より水を祀ってきましたし、その文化を守ってきました。その伝統が母系社会を維持してきたのです。
しかし戦後、経済発展を名目に様々な形で水が汚され、原発が安全であると考える人さえ出てきている状態です。
日本文明の根幹は水であり、禊であるはずなのに、原発排水で水を汚しても安全であるというのは、ただのこじつけに過ぎません。原子力は核分裂のエネルギーを使用しているので、これは明らかに『火』であり、『火』のエレメントによって世界中が汚されているといっても良いと思います。
こんなことを続けていますと、ガイアの自動調整機能によって『水』の力が発動されます。これが瀬織津姫の声の正体です。
この声を聞く人たちが最悪の状態(大洪水)になる前に、地上で動いて調整ができていけば良いのですが、今のままでいきますと大洪水が起こり、『火』を閉じ込めるために急速な寒冷化が始まります。
心配せずともガイアは生きていますので、自動的に辻褄合わせは行われます。しかしそのようにガイアと人が決別するようなシナリオを選択することもないと思います。
私たち日本人が祓戸の女神。瀬織津姫をリコールするだけで世界中の『対話』に関する問題、『バランス』に関する問題、『融合』に関する問題の全てが解決されるのです。
じゃあどうやって『水』を守っていくかというと、水の信仰を取り戻すしかないんですね。
例えば、※富士講※には八海めぐりというものがあって、池を巡っていくんですけれども、水に対する信仰が非常に強いんですね。外八海のひとつ・静岡県の桜ヶ池をご神体にする池宮神社には、主祭神として瀬織津姫が祀られています。明治時代以降、各地の信仰がめちゃくちゃに破壊されましたけど、まだ140年くらいしか経っていません。縄文1万2千年を考えるとほんの1瞬です。まだまだ軽く取り戻せます。
東京では最近では、富士講の見直しが行われ始めていて、東京湾の浄化運動もだいぶ前から行われています。去年は大阪で天の川イベントという素晴らしい行事が行われましたね。天の川然り、七夕然り、富士講然り、全て日本の伝統文化というのは水を大切にする文化ですから、いくら原発関係者が物理データを捏造してみても先祖の前でそういう嘘がつけるのかどうかを問うた時、たぶんできないでしょう。
自民党も民主党も原発を推進しており、連立を組んでいた社民党だけが唯一、脱原発をマニフェストで宣言しています。私たちひとりひとりがどういう社会を望むのかを意思表示をしないといけないでしょう。
女性性の再生とか、瀬織津姫の復活とか、言われておりまして、かなり大きな渦になってきております。ただまだこの流れは伏流水的ものであって、社会の中にあって認知されていない大きな地中深いところでの流れです。しかし、それは本当に清浄で美しいものです。
私の周りだけでも様々な世代、様々な環境を持つ人々が同じ方向に向かって進んでいます。
御杖代(みつえしろ)は、この伏流水を地上にあふれさせる役目を持つ人たちでもあります。(本来はコウ「皇」を杖で支えるという意味ですが)
この象徴が倭姫であり、威勢(伊勢い)良く水をあふれさせ泉を作る役目を負った人でもあります。一年前の明治神宮巡礼 ~ 七色の虹となりて ~(Dragon Anasta)でも瀬織津姫が噴出して昨年末から、清正の井が大変な人気になっているようです。マスメディアはTV番組で紹介したことがきっかけで人気が出たということを言っていますが、真相は全く違います。
真相は、瀬織津姫が噴出して”水が危ない”と多くの人の深層意識に訴えかけた、ということです。
加藤清正は、元は藤原氏であり中臣氏でもあります、中が富むというのは、中瀬に立つ瀬織津姫の光で世の中が照らされるという意味であり、清正の井は、古代から中臣氏の祭祀場であった可能性が高いです。美しい伏流水があるところにも常に瀬織津姫はいるのです。
武蔵(東京)一之宮の小野神社の主祭神は瀬織津姫と捉えても良いかと思います。何度も言っておりますが、関東は初期大和王権が根を張った時代のことを思い出さなければならず、それは歴史文献的には蝦夷の時代なんですね。弱者に対するシンパシーがなければ、とても瀬織津姫を立たせることはできません。なぜなら、水は非常にはかなくよわいもの。手で掬ってもすぐに零れ落ちます。
※印で囲んだリンクは全て『ウィキペディア(Wikipedia)』からの引用
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怒り(男性性「イカグ」)の光の側面をより伸ばしていくためには、水(女性性)の力が必要なんですけれども、今、水(瀬織津姫)の力が非常に弱まっています。
社会に怒りが充満することと、水が穢れていくことは密接不可分な関係にあって、水が穢れていくことによって女性性が衰退するだけででなく、男性性の闇の側面が強くなってきます。
滝の周辺にはマイナスイオンがあって、そのイオンによって人は癒されると言われていますが、エレメント的には、『水』によって『火』が抑えられるということになります。
なので清浄な水がある地域では、社会の怒りはより少ないといっていいでしょう。
だからこそ私たち日本人は古来より水を祀ってきましたし、その文化を守ってきました。その伝統が母系社会を維持してきたのです。
しかし戦後、経済発展を名目に様々な形で水が汚され、原発が安全であると考える人さえ出てきている状態です。
日本文明の根幹は水であり、禊であるはずなのに、原発排水で水を汚しても安全であるというのは、ただのこじつけに過ぎません。原子力は核分裂のエネルギーを使用しているので、これは明らかに『火』であり、『火』のエレメントによって世界中が汚されているといっても良いと思います。
こんなことを続けていますと、ガイアの自動調整機能によって『水』の力が発動されます。これが瀬織津姫の声の正体です。
この声を聞く人たちが最悪の状態(大洪水)になる前に、地上で動いて調整ができていけば良いのですが、今のままでいきますと大洪水が起こり、『火』を閉じ込めるために急速な寒冷化が始まります。
心配せずともガイアは生きていますので、自動的に辻褄合わせは行われます。しかしそのようにガイアと人が決別するようなシナリオを選択することもないと思います。
私たち日本人が祓戸の女神。瀬織津姫をリコールするだけで世界中の『対話』に関する問題、『バランス』に関する問題、『融合』に関する問題の全てが解決されるのです。
じゃあどうやって『水』を守っていくかというと、水の信仰を取り戻すしかないんですね。
例えば、※富士講※には八海めぐりというものがあって、池を巡っていくんですけれども、水に対する信仰が非常に強いんですね。外八海のひとつ・静岡県の桜ヶ池をご神体にする池宮神社には、主祭神として瀬織津姫が祀られています。明治時代以降、各地の信仰がめちゃくちゃに破壊されましたけど、まだ140年くらいしか経っていません。縄文1万2千年を考えるとほんの1瞬です。まだまだ軽く取り戻せます。
東京では最近では、富士講の見直しが行われ始めていて、東京湾の浄化運動もだいぶ前から行われています。去年は大阪で天の川イベントという素晴らしい行事が行われましたね。天の川然り、七夕然り、富士講然り、全て日本の伝統文化というのは水を大切にする文化ですから、いくら原発関係者が物理データを捏造してみても先祖の前でそういう嘘がつけるのかどうかを問うた時、たぶんできないでしょう。
自民党も民主党も原発を推進しており、連立を組んでいた社民党だけが唯一、脱原発をマニフェストで宣言しています。私たちひとりひとりがどういう社会を望むのかを意思表示をしないといけないでしょう。
女性性の再生とか、瀬織津姫の復活とか、言われておりまして、かなり大きな渦になってきております。ただまだこの流れは伏流水的ものであって、社会の中にあって認知されていない大きな地中深いところでの流れです。しかし、それは本当に清浄で美しいものです。
私の周りだけでも様々な世代、様々な環境を持つ人々が同じ方向に向かって進んでいます。
御杖代(みつえしろ)は、この伏流水を地上にあふれさせる役目を持つ人たちでもあります。(本来はコウ「皇」を杖で支えるという意味ですが)
この象徴が倭姫であり、威勢(伊勢い)良く水をあふれさせ泉を作る役目を負った人でもあります。一年前の明治神宮巡礼 ~ 七色の虹となりて ~(Dragon Anasta)でも瀬織津姫が噴出して昨年末から、清正の井が大変な人気になっているようです。マスメディアはTV番組で紹介したことがきっかけで人気が出たということを言っていますが、真相は全く違います。
真相は、瀬織津姫が噴出して”水が危ない”と多くの人の深層意識に訴えかけた、ということです。
加藤清正は、元は藤原氏であり中臣氏でもあります、中が富むというのは、中瀬に立つ瀬織津姫の光で世の中が照らされるという意味であり、清正の井は、古代から中臣氏の祭祀場であった可能性が高いです。美しい伏流水があるところにも常に瀬織津姫はいるのです。
武蔵(東京)一之宮の小野神社の主祭神は瀬織津姫と捉えても良いかと思います。何度も言っておりますが、関東は初期大和王権が根を張った時代のことを思い出さなければならず、それは歴史文献的には蝦夷の時代なんですね。弱者に対するシンパシーがなければ、とても瀬織津姫を立たせることはできません。なぜなら、水は非常にはかなくよわいもの。手で掬ってもすぐに零れ落ちます。
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2010/06/13 [00:42] (Sun)
やっぱりそうですね。昨日の続きなんですが、※ククノチ※は、カヤノヒメと関わっていて、ここのつ(九)の霊ですね。縄文の※九十九神※とは違うので、ひふみの9は、※ユグドラシル※の思想が入ってきています。すごい深さですね、日本神話は、、、
北欧は北欧で奥が深いので、また明日からでも突き詰めていければと思います。なぜか子供の頃から、ノルウェーやスウェーデンが好きで行ってみたいという願望はありました。
氷室京介さん の 「 Diamond Dust 」 です。
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2010/06/12 [01:50] (Sat)
日本各地に※海部郡※がある。愛知県にも海部郡があって、そことは違いますが、あま市というところがあります。そのあま市に※萱津神社(かやづじんじゃ)※という神社があります。そこの祭神が、※カヤノヒメ※。
このカヤノヒメは非常に重要でカヤナルミともつながります。このカヤノヒメの別名が、※野槌(のづち)※。野の精霊(野つ霊)の意味とされています。また、ツチノコの語源でもあります。この野槌信仰、実は阿波にもあって阿波にも海部郡があります。ひょっとすると海部と野鎚は因果関係があるのではないかというメッセージ。
野槌は、イカヅチ(雷)やカグヅチ(火の神)ともつながっています。
野槌のような民間信仰の神に※ヒダル神(ヒダルがみ)※っていう神さまもいます。これはヒタヒタ、タルタルのアマタラス(天照)とタルミ(オモダル・アヤカシコネ)とも関わっていますね。
ノヅチが野の精霊ならカヅチは火の精霊。ちなみに”カ(か)”は輝くとか、鹿島のカ(か)とか、カカセオとかのカ(か)。
ちなみにカ(か)は、漢字の力(ちから)にも似ていて。アマの岩戸を引いたのは手力男。カカが入っている。これは男神。火の精霊カヅチと力の象徴・手力男がつながるのは決して偶然ではないでしょう。
ひふみは、縄文哲学だと思っていましたが、むしろこのカカのほうが縄文かも。縄文は月の文明だとも聞いたことがありますし、おそらく星の文明であったのかもしれない。南米にはチチカカ湖なんていう湖もあります。ビラコチャは日本の白鬚大神でもあるのですが、白鬚大神の本拠地は琵琶湖(ヒワコ)。
やっぱりつながってきますね。3段階に分かれている。
1段階目=チチ・カカ・ハハ(縄文)
2段階目=ひ・ふ・み(弥生前期):物部=フェニキア、エジプト
3段階目=ア・ワ、ア・ウン(弥生後期):葛城=ギリシャ
秦=ローマ
加茂=フェニキア、エジプト
忌部=ユダヤ
ちなみに水の精霊は、ミヅチ(水つ霊)になるでしょう。ミツハノメなんかに名前が引き継がれてますね。縄文は、東をカカ、西をハハ、北か南をササと呼んだんではないでしょうか。
弥生時代になって、東(ひがし)はヒでヒダリテ。西は水(みず)でミギテ。南は波で海。北は木でククノチ。この場合、ユグドラシルですよね、北は。
MISIA の 「 約束の翼 」 です。
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このカヤノヒメは非常に重要でカヤナルミともつながります。このカヤノヒメの別名が、※野槌(のづち)※。野の精霊(野つ霊)の意味とされています。また、ツチノコの語源でもあります。この野槌信仰、実は阿波にもあって阿波にも海部郡があります。ひょっとすると海部と野鎚は因果関係があるのではないかというメッセージ。
野槌は、イカヅチ(雷)やカグヅチ(火の神)ともつながっています。
野槌のような民間信仰の神に※ヒダル神(ヒダルがみ)※っていう神さまもいます。これはヒタヒタ、タルタルのアマタラス(天照)とタルミ(オモダル・アヤカシコネ)とも関わっていますね。
ノヅチが野の精霊ならカヅチは火の精霊。ちなみに”カ(か)”は輝くとか、鹿島のカ(か)とか、カカセオとかのカ(か)。
ちなみにカ(か)は、漢字の力(ちから)にも似ていて。アマの岩戸を引いたのは手力男。カカが入っている。これは男神。火の精霊カヅチと力の象徴・手力男がつながるのは決して偶然ではないでしょう。
ひふみは、縄文哲学だと思っていましたが、むしろこのカカのほうが縄文かも。縄文は月の文明だとも聞いたことがありますし、おそらく星の文明であったのかもしれない。南米にはチチカカ湖なんていう湖もあります。ビラコチャは日本の白鬚大神でもあるのですが、白鬚大神の本拠地は琵琶湖(ヒワコ)。
やっぱりつながってきますね。3段階に分かれている。
1段階目=チチ・カカ・ハハ(縄文)
2段階目=ひ・ふ・み(弥生前期):物部=フェニキア、エジプト
3段階目=ア・ワ、ア・ウン(弥生後期):葛城=ギリシャ
秦=ローマ
加茂=フェニキア、エジプト
忌部=ユダヤ
ちなみに水の精霊は、ミヅチ(水つ霊)になるでしょう。ミツハノメなんかに名前が引き継がれてますね。縄文は、東をカカ、西をハハ、北か南をササと呼んだんではないでしょうか。
弥生時代になって、東(ひがし)はヒでヒダリテ。西は水(みず)でミギテ。南は波で海。北は木でククノチ。この場合、ユグドラシルですよね、北は。
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自己紹介:
政治/経済、宗教/哲学を基本としながら市民活動やスピリチュアル活動など、広範囲に動いております。行動範囲は今のところ、東は茨城県から西は中国四国地方までです。特に修験色の強い山間部の地域活性化に興味があります。該当自治体の担当者の方からのご連絡お待ちしております。どうぞよろしくお願いします。
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